八幡神社【はちまん】(福井県小浜市小浜男山)

若狭小浜の八幡神社は丹後街道に面している




反り増しが美しい鳥居、そして背後の甘南備形の山




私のHPの写真は、時系列に並んでおりません。
東側(写真左)から神社の前に至ったので、私の当社の第一印象はこの写真です。




拝殿の前に雪が残っていた。参拝したのは2月だが、この日は暖かかった。




拝殿

掲示

八幡神社(旧社格県社)

御祭神
應神天皇
神功皇后(應神天皇御母)
宗像三神 多紀理比賣神
     多紀都比賣神
     市伎島比賣神

御神徳
古来武神として崇められてきたが、学問の神、産業振興の神でもあり、また海路陸路交通安全の神、安産子育ての神としても崇敬されている。

由緒
国学者伴信友翁は「八幡考」で神護景雲三年(西暦七六九年)創建 神護景雲四年勅使参向鹿毛の馬奉納(続日本紀)と考証している。

祭日
九月十五日




社殿は雪囲いがされていた。境内社の奥に本殿の屋根が見える。

境内社
若宮神社 栗島神社 天満神社 三輪神社 松尾神社 大山祗神社 六月祓神社
高良神社 彦狭智神社 稲荷神社 船玉神社 姫宮神社 大神宮 秋葉神社



宮司さんから、『後瀬山麓御鎮座 若狭小浜 八幡神社』と題した御由緒を頂戴致しました。以下はその抜粋です。

創建
 当社の創建は、奈良時代末神護景雲三年(769)ではないかと考えられています。戦国末、若狭を領有していた武田家の力が衰え、やがて滅亡するという事態に至りました。武田家の氏神であった当社も戦火にかかり、社家が滅びるなど大変動があったようです。現在の社家渡辺氏が文献に現れるのは天正末期で、それ以前の文書等で神社に残っているのは、大永元年(1521)の多宝塔勧進状一巻と天文七年(1538)国主武田信豊公の奉納した太刀一口だけといった状態です。
 江戸時代に入ると人々は、地域の文献に出ている当社の記録を辿りながら氏神の由緒を調べ始めました。延宝三年(1675)祠官渡部左近長次は由緒記を藩庁へ提出していますし、同年町老の請により、藩の学者も『八幡神社由緒記』一巻を記し、当社に奉納しています。そして若狭の国学者伴信友翁は諸文献を研究し、その著書『八幡考』で、『続日本紀』の「神護景雲四年、勅使参向鹿毛の馬奉納」とあるのは当社のことで、創建はその前年の神護景雲三年ではないかと考証しておられます。

船玉神社
 江戸時代から明治にかけて、当地の廻船問屋は弁才船(当地では千石船と言った)を所有し、日本海を舞台に国内交易を行い、遠く北海道まで乗り出していました。その航海の安全を祈るため「船玉神社」が各社の末社として祀られるようになりました。弁才船の模型を神座として祀る船玉信仰は、小浜地方独特の信仰形態であり、当時の小浜の街の繁栄をしのぶことができます。「船玉」は本来は「船霊」と書くべきでしょうが、当地では慣例的に「玉」の字を用いています。当社にも二隻の船が「船玉神社」に祀られており、他神社の船とともに計七隻は一括して市の文化財に指定されています。

著名神社名を持った氏子各区
 明治の始めそれまでの町を再編成し、氏子区が二十四区に分けられました。その際、各区共全国の著名な神社名を区の名前としました。鹿島区、多賀区、住吉区、浅間区とすべて神社名を名乗っています。しかし、一区だけ酒井区と言う区があります。それは、せめて一区だけ旧藩主の名前を残そうと、春日区となるところを、酒井区と名付け今日に至っています。

(渡邊 驕@若狭小浜八幡神社宮司)

Mapionのリンクを見て頂くと竜田、神田、白鳥、大宮、鹿島、住吉等の地名を見ることが出来ます。当社が鎮座する男山は、石清水八幡宮が鎮座する男山からとられたのでしょうか。

会社の親睦会で、小浜に蟹を食べに行った。旅館では、食事その他を含め2時間半の設定になっていた。蟹三昧で、酒の飲めない私はひたすら食べていたが、かにすき前にほぼ満腹になった。カラオケは無かった。旅館の前は小浜湾である。カメラを持って、そっと外へ出た。海岸を散歩していたら、地区の地図があった。神社があるではないか。ここから数百メートルの距離である。参拝することにした。自宅の風呂場ですべって膝が痛かったのだが、歩いて行った甲斐のある神社でした。出発時間が迫っていたので頂いた由緒をゆっくり読めず、船玉神社をチェック出来ませんでした。地図では近くに八百比丘尼入定伝説の地があるはずだが時間がありませんでした。小浜の古い街並みも巡ってみたいので、機会が有れば再訪致します。雪囲いが外される季節に。


神社の地図 ←地図 戻る

home   作成:2011.02.27