河合神社【かわい】(京都市左京区下鴨泉川町)
鴨川合坐小社宅神社【かもかわいにますおこそべ】
左賀茂川と右高野川が合流して鴨川となる。二つの川にはさまれた中央部に糺の森【ただすのもり】はある。
森の内部に賀茂御祖神社(下鴨神社)の参道が通っているが、そのとっかかりに河合神社がある。
延喜式神名帳には「鴨川合坐小社宅神社」と記され、賀茂御祖神社の摂社である。
「河合社」と書いて「タダスノヤシロ」と訓むのが慣例だった。『太平記』巻十五に「河合森」【タダス】とある。
『新古今集』の慈円の歌の「ただすの宮」も河合社をいう。糺の森は河合社に属していたようだ。
社宅【こそべ】は社部、社戸とも書かれている例があるが、マツリゴトを行う場所又は人の意味だそうだ。
それが転じて神社をコソと言うようになったという。大阪市東成区の比賣許曾神社【ひめこそ】のコソも同じ意であるとのこと。
糺の森【ただすのもり】
左手に河合神社、川沿いに奥(北)へ進むと賀茂御祖神社(下鴨神社)がある。
「日本の神々 5」賀茂御祖神社・河合社の項で大和岩雄氏は以下の様に書かれている。
河合社が「只州社」【ただすのやしろ】とも書かれることから、「ただす」は河合の州の意とする説があるが、この解釈では「只」の意味が不問になっている。「只」【ただ】は「直」【ただ】と同源であり、「タダス」は朝日の「直射す」【たださす】の意味であろう。
四明岳(比叡山の最高峰)山頂−−糺の森(下社・河合社)−−元糺の森(天照御魂社・蚕の社)−−日埼峯(松尾大社旧跡)が上図の様に一直線に並ぶが、この線は、四明岳に昇る夏至の朝日の遙拝線にほかならない。冬至に日埼峯に日の入りする遙拝線でもある。
写真右手(北)に河合神社の神門がある。左手(南)には、神門に対面するように摂社三井社【みつい】がある。
三井社
境内掲示
重要文化財申請社殿
三井社【みついしゃ】[別名 三塚社]
中社 賀茂建角身命【かもたけつぬみのみこと】
西社 伊賀古夜日賣命【いかこやひめのみこと
東社 玉依媛賣命【たまよりひめのみこと】
古い時代の下鴨神社は、古代山代国愛宕【おたぎ】、葛野郷【かづぬごう】を領有していた。その里には、下鴨神社の分霊社がまつられていた。この社は、鴨社蓼倉郷【たてくらごう】の総(祖)社としてまつられていた神社である。摂社三井神社「風土記」山城国逸文「鴨社」の条の「蓼倉里三身社」【たてくらのさと】とは別の社である。
逆方向(西)から神門を見る
神門から境内を見る
舞殿右手奥に鴨長明が晩年に暮らした方丈のレプリカがある
拝殿
右が本殿、左は貴布禰社
境内掲示
河合神社
祭神 玉依姫命
祭神は神武天皇の御母神
例祭日 十一月十五日
神徳
神武天皇とともに御母神として日本建国に貢献された内助の御功績は、日本婦人の鑑とも仰がれており、安産・育児・縁結び・学業・延命長寿の守護神として広く知られている。
由緒
鎮座の年代は、不詳であるが神武天皇の御代から余り遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に「鴨河合坐小社宅神社」とある。「鴨河合」とは、古代からの神社の鎮座地を云い、「小社宅」(こそべ)は「日本書紀」に「社戸」と訓まれ、それは本宮の祭神と同系列流の神々との意である。延喜元年(901)十二月二十八日の官符には「河合社、是御祖、別雷両神の苗裔神也。」ともある。
天安二年(858)、明神大社に列し、寛仁元年(1017)神階正二位。
元暦二年(1185)正一位。明治十年(1887)賀茂御祖神社第一摂社に列せられた。
社殿
本宮の二十一年目ごとに行われた式年遷宮の度ごとにこの神社もすべての社殿が造替されていたが、現在の社殿は延宝七年度(1679)式年遷宮により造替された古殿を修理建造したもので、平安時代の書院造りの形式をよくとどめている。
例祭日
貴船社 六月一日 本宮摂社 高オカミ神
任部社 十一月十五日 河合社末社 八咫烏神
六 社 十一月十五日 河合社末社 諏訪神他五神
三井社 九月九日 河合社末社 賀茂建角身命他二神
河合神社と鴨長明
「ゆく河の流れはたえずしてしかももとの水にあらず」という冒頭の文で始まる方丈記は多くの人に親しまれている。作者鴨長明は、本宮祢宜の家系であった。幼少より和歌にすぐれ、後鳥羽院に見いだされ御和歌所の寄人となり、宮廷歌人として活躍したことで知られる。
石川や瀬見の小川の清ければ、月も流れをたずねてぞすむ 長明
左:任部社(専女社)、中央:貴布禰社、右:本殿
境内掲示
重要文化財申請社殿
貴布禰神社【きふねじんじゃ】
御祭神 高■神【たかおかのかみ】 ■:雨冠/口口口/龍
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に、河合神社の御垣内にまつられていたことが収載されている神社で水の神として有名。
瑞垣内左端に任部社【とうべのやしろ】(専女社)【とうめのやしろ】
境内掲示
重要文化財申請社殿
任部社【とうべのやしろ】[古名 専女社【とうめのやしろ】
御祭神 八咫烏命【やたがらすのみこと】
河合神社創祀のときよりまつられている社である。古名専女とは、稲女とも書き食物を司る神々がまつられていたことを示している。のちに「百練抄」安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀された。昭和六年(1931)、御祭神の八咫烏命が日本の国土を開拓された神の象徴として日本サッカー協会のシンボルマークとなって以来、サッカー必勝の守護神として有名である。
六社【むつのやしろ】
境内掲示
重要文化財申請社殿
六社【むつのやしろ】[北方より]
諏訪社 御祭神 建御方神【たけみなかたのかみ】
衢社【みちしゃ】 御祭神 八衢毘古神【はちまたひこのかみ】、八衢比賣神【やちまたひめのかみ】
稲荷社【いなりしゃ】 御祭神 宇迦之御魂神【うかのみたまのかみ】
竈神【かまどのかみ】 御祭神 奥津日子神【おくつひこのかみ】 奥津比賣神【おくつひめのかみ】
印社【いんしゃ】 御祭神 霊璽【れいじ】
由木社【ゆうきしゃ】 御祭神 少彦名神【すくなひこなのかみ】
第八回、建仁元年(1201)十二月十日新年遷宮のために描かれたとみられる「鴨社古図」によると、河合神社の御垣内にそれぞれ別々にまつられていた。江戸時代の式年遷宮のとき各社が一棟となった。いずれも、衣食住の守護神である。
鏡絵馬
手鏡の形をした絵馬です。自分の一番綺麗な姿を、綺麗になりたいと願いながら描き奉納すると美人になるそうです。
他に、下鴨神社の花梨【かりん】を使った美人水という飲み物もあり、さらに磨きをかけたい貴女にお勧め。
鴨長明が暮らした方丈を再現したもの |
方丈内部 |
境内掲示
鴨長明
久寿二年(1155)、下鴨神社禰宜長継の次男として泉の館(現在の京都大学北方一帯)において生まれた。応保元年(1161)、七歳のとき、下鴨神社の第六回式年遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられた。幼少から学問に秀で、特に歌道に優れていた。安元元年(1175)(二十一歳)、高松女院歌合わせに和歌を献じ注目をあつめた。治承四年(1180)六月、二十六歳のときには、福原へ都が遷され、宮中に奉仕する長明も新都へ赴いたが、八月、源頼朝の乱により平家は滅亡し、再び平安京へ遷都され帰洛した。正治二年(1200)四十六歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることになった。翌、建仁元年(1201)和歌所の寄人に任せられた。また琵琶や笛、琴にもたけた演奏の記録が随所にみえる。しかし、元久元年(1204)、五十歳の春、宮中の席を辞して出家し、洛北大原に隠とんする。元久二年三月「新古今和歌集」に
石川や 瀬見の小川に清ければ
月も流れを たずてぞすむ
をはじめ十首が採録された。「瀬見の小川」とは、この河合神社の東を今も流れる川のことである。建暦二年(1212)三月、「方丈記」ついで「無名抄」を著した。建保四年(1216)閏六月八日、六十二歳で歿した。
長明の方丈
鴨 長明は、五十歳のときすべての公職から身をひき大原に隠とんした。その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元二年(1208)、五十八歳のころ(現在 京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖」【すみか】として仕上げたのが、この「方丈」である。移動に便利なようにすべて組み立て式となっている。
広さは、一丈(約三メートル)四方。約二.七三坪、畳、約五帖半程度。間口、奥行とも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう一つの特徴は、土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。下鴨神社の本殿もまた土居桁の構造である。
この構造は、建物も移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は、式年遷宮により二十一年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。
home 更新:2013.10.12 作成:2012.05.27