護王神社【ごおう】(京都市上京区桜鶴圓町【おうかくえん】)

掲示
護王神社【ごおうじんじゃ】
 桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂【わけのきよまろ】とその姉広虫を祭神とする神社。もとは神護寺境内にあったが明治十九年(1886)この地に移された。
 広虫が慈悲深く、京中の孤児を養育したことにより子育て明神と呼ばれ、育児の神として信仰される。
 拝殿の前に狛犬のかわりに猪像があるが、これは清麻呂を猪が守護したという故事にちなむ。十一月一日に亥子【いのこ】祭がある。
京都市

 狛猪1

狛猪
 

参道入り口
狛猪2

狛猪



境内入り口 狛猪3



猪が吐水口7 猪の吐水口8



狛猪4

狛猪吽形
舞殿越しに神門を拝す

拝殿越しに神門を望む
狛猪5

狛犬阿形



神門と本殿

神門 本殿

御祭神:和気清麻呂公命、和気広虫姫命

掲示
奈良時代・称徳天皇の御代、法皇となって権勢をふるっていた弓削道鏡は、天皇の位をわが物にしようと、「自分を皇位につかせたなら天下は太平になると宇佐八幡より御神託(神様のお告げ)があった」とウソをつきました。
天皇から御神託が本当かどうかを確かめてくるよう命を受けた和気清麻呂公は、九州の宇佐八幡へ行き、御神前に「真意を示したまえ」と叫びました。
すると光の中から宇佐の大神が現れ、
「天皇の後継者には必ず皇族の者を立てなさい。無道の者は早く追放してしまいなさい」と御神託を下されました。
都へ帰った清麻呂公は、このことを天皇に報告し、道鏡の野望を暴きました。
道鏡の怒りを買った清麻呂公は、大隅国(鹿児島県)に流されることになり、その旅の途中、道鏡の放った刺客に襲われ、足の筋を切られてしまいました。それでも清麻呂公は、皇室の安泰を守られたことを感謝するため、宇佐八幡へ立ち寄ることにしました。
そして一行が豊前国(福岡県東部)にさしかかった時、どこからともなく三百頭ものイノシシが現れ、清麻呂公の輿の周りを護りながら十里(約40km)の道のりを案内してくれたのです。イノシシたちは宇佐八幡に着くと、またどこかへ去って行きました。
清麻呂公を悩ませていた足の痛みも不思議と治っていました。
一年後、称徳天皇の崩御により道鏡は失脚すると、清麻呂公は都へ呼び戻され、晩年まで世のため人のために尽くしました。
清麻呂公の立派な人柄とともに、彼を護ったイノシシのお話は、後世まで語り継がれることとなりました。
清麻呂公を祀る護王神社には、狛犬の代わりに狛いのししが建てられ、今も清麻呂公を護り続けています。

足腰の守護神 いのししの 護王神社



掲示
護王神社の主神・和気清麻呂と広虫
古代の社会福祉の先駆者
京都大学名誉教授 上田正昭

 七九四年(延暦一三)の一0月、都は長岡京から平安京に遷されましたが、平安遷都の実質的な推進者は和気清麻呂でした。それは清麻呂がなくなったおりの薨伝
【こうでん】に、長岡の新京が一0年を経ても完成をみず、厖大な費用がかかりすぎているとして、桓武天皇に葛野への遷都を「ひそかに奏す」と述べられているのにうかがわれます(『日本後紀』)。
 その和気清麻呂の姉が和気広虫です。和気氏の家伝では、その祖先を磐梨別【いわなすわけ】と伝えていますが、和気氏は備前の東部・美作の東南部の有力な豪族でした。広虫と清麻呂の父は和気乎麻呂
【おまろ】で、広虫は天平末年ないしは七五0年(天平勝宝二)のころに、葛木戸主と結婚しました。しかし七六0年(天平宝字四)のころに戸主がこの世を去って、広虫は三0歳あまりの若さで未亡人となりました。
葛木戸主夫妻は社会福祉につとめ、平城京内の孤児をあつめて養育し、七五六年(天平勝宝八)には、成人となった男九人、女一人を養子としました。七五九年(天平宝字三)の三月一九日に、葛木戸主が東大寺正倉院の薬物を施薬院に分与することを請願した文書が、現在も正倉院文書のなかにあります。
 広虫は孝謙天皇の側近の女官になり、上皇が仏門に帰依したおりには、出家して法均尼となります。七六四年(天平宝字八)には、藤原仲麻呂の乱で孤児となった八三人を保育し、葛木首の姓を与えられたその全員を養子としました。そればかりではありません。仲麻呂の乱に連座した三七五人の助命減刑を上申して、その願いが認められています。
 古代において孤児の養育にあたった人物はほかにもありますが、広虫のように長期にわたっていくたびも孤児などの救済にあたった例はきわめてまれです。広虫は七九九年(延暦一八)の正月二0日、七0歳をもってこの世を去りましたが、その生涯は社会の福祉や保育の先駆者ともいうべき慈悲の人生でした。
 清麻呂の学識と勇気ある行動の背景に姉の力が大きな光りを与えています。広虫の薨伝
【こうでん】には「貞順にして節操かわることなく、こと清麻呂の語中にあらわる」とあり、広虫の逝去後一カ月のちにあの世へ旅立った清麻呂の薨伝【こうでん】には、桓武天皇の「いまだかつて法均(広虫)、他人の過を語るを聞かず」の言葉が載っています。護王神社の主神は清麻呂公と広虫姫命です。
出典『京都人権歴史紀行』(平成十年十一月二十五日発行)人文書院




カリンの御神木 猪6

御神木
写真左:カリンの御神木。樹齢は100年を超えるとか。木肌が美しい。   写真右:御神木の右手にさり気なく猪が・・・




猪グッズ 猪グッズ

この区画には、猪がめちゃくちゃおります。(上の写真の猪はほんの一部です)




神護寺にある和気公霊廟

神護寺にある和気公霊廟(2001.11撮影)

護王神社の公式HPには以下の様に書かれている。(「御由緒と御祭神」より抜粋)
 和気清麻呂公は、天平5年(733)、現在の岡山県和気町でお生まれになり、長じて奈良の都へ上り、朝廷にお仕えしました。

 洛西の高雄山神護寺の境内に清麻呂公の霊社として祀られ、古くから「護法善神」と称されていました。

 江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇は清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)には「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。

 明治19年(1866)、明治天皇の勅命により、華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門(はまぐりごもん)前の現在地に社殿を造営し、
神護寺境内からご遷座。後に姉君の和気広虫姫も主祭神として合わせ祀りました。


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写真:2014.05撮影
home   更新:2020.02.16a 作成:2020.02.13