北野天満宮【きたのてんまんぐう】(京都市上京区馬喰町)

参道入り口

参道入り口 一の鳥居



北野天満宮という名称は、太平洋戦争後に改称されたものでそれ以前は北野神社と呼ばれておりました。さらにそれ以前は、北野社、北野天神、天満大自在天神社など色々に呼ばれておりました。幕末までは北野宮寺とよばれ、神社とも寺院とも区別が付かない時期(神仏習合)もありました。

祭神 菅原道真公【すがわらのみちざねこう】
    吉祥女【きっしょうにょ】(萱公夫人)
    中将殿【ちゅうじょうどの】(菅公子息)



樓門

樓門




三光門

三光門
5:48の電車に乗って京都に来たんですけど、学生君がけっこういました。
修学旅行で京都に一泊したんでしょうね。タクシー運転手さんのガイド付きで境内を行く学生君のグループも複数見ました。
私の時代に比べたら、修学旅行は格段の進歩を遂げております。


三光門と梅

三光門と梅
(2012.03.16撮影。梅の開花は、例年より3週間遅れとか。)



拝殿

拝殿




拝殿

拝殿




本殿

本殿
左端の拝殿と石の間【いしのま】を挟んで繋がる本殿。日光東照宮と同じ権現造。
現在の社殿は慶長十二年(1607年)豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として造営したものです。




実在の人物で始めて神として祀られたのが菅原道真であります。その経緯は・・・・

宇多天皇は、藤原時平の権勢を押さえるため菅原道真を寵遇し親政を行います。ところが897年宇多天皇31歳の若さでとつぜん位を幼帝醍醐にゆずる。さら899年宇多上皇は仏門に入ってしまいます。よりフリーになって風流三昧の人になりたかったのでしょうが、宇多から厚い庇護を受けていた道真にとっては大打撃でありました。このとき道真は右大臣まで昇り詰めておりました。学者出身で大臣まで昇進したのは、吉備真備以来でありました。
そして901年時平の反撃が始まる。
道真が醍醐帝を廃し、宇多法皇の皇子であり道真の娘婿でもあった斉世【ときよ】親王を立てようとたくらみ、すでに法皇の同意を得たと天皇に讒言する。年少の醍醐帝に道真の陰謀なるものを認めさせ、道真を太宰権帥【だざいのごんのそち】とした。(実質島流し)道真左遷の報を聞いた宇多法皇は、停止を申し入れるため醍醐天皇の内裏に駆けつけますが参内はかないませんでした。
太宰府に向かう時に道真が詠んだ「東風【こち】吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」は有名。


摂末社




道真は、903年太宰府で病死する。59歳でありました。
その後、道真の祟りとする異変が以下のように続く。
908年蔵人頭藤原菅根【ふじわらのすがね】死亡。(道真の左遷工作に一役買う。門を閉ざして宇多上皇の参内を拒んだのも菅根だった。)
この年以来凶作が続き、疫病が広がってゆく。
909年左大臣藤原時平39歳病没。
913年右大臣源光変死。(時平に味方し道真追放工作を行う。)
923年時平の妹藤原穏子【やすこ】所生の皇太子保明【やすあきら】親王が21歳で急死。
925年次の皇太子と定められた慶頼【よしより】王が、天然痘により5歳で死亡。
慶頼王の母は時平の娘仁善子【よしこ】である。
930年清涼殿・紫宸殿に落雷。
 大納言民部卿藤原清貫【きよつら】朝衣に火がつき胸がさけて急死。
 右中弁兼内蔵頭平希世【たいらのまれよ】顔焼け伏す。
 右兵衛佐美努忠包【みぬのただかね】髪焼け死亡。
 紀蔭連【きのかげつれ】腹燔け悶乱す。
 安曇宗仁【あずみむねひと】膝焼けて臥す。 
落雷のショックで醍醐天皇は寝付いてしまい、さらに咳病をもわずらい46歳で死亡する。
936年時平の長男保忠が47歳で病死する。

923年、醍醐天皇は死んだ道真の位をもとの右大臣に戻し左遷の命令書を破り捨てたが、効果はなかったようです。


942年(天慶5年)、右京七条二坊に住む多治比文子【たじひのあやこ】という女性(西市の市神に仕える巫女?)に「北野の右近の馬場に私を祀れ。」との天満天神の託宣が下り、道真を天神として祭ることが始まったが、文子は貧しく、我が家の庭に粗末な社を祀った。
947年(天暦元年)、今度は近江の比良宮の神職神良種【みわのよしたね】の七歳の息子太郎丸に道真の霊が乗り移り「これから私の住み着く所に松を生やす。」と語った。すると一夜のうちに北野の右近の馬場に松が生えたという。僧最珍は、文子・良種とともに北野に小さな社を建立した。北野は平安の当初から天神・雷神を祭る聖地とされており、天満天神の所在としてふさわしい条件を備えておりました。
959年(天徳3年)、右大臣藤原師輔【もろすけ】が社殿の増築や神宝の奉納を行ったのが今日の北野天満宮の起こりと言われる。師輔は時平の弟忠平の息子で、道真とも親しく、時平の陰謀にも加わっていなかった。993年(正暦4年)5月には道真に正一位・左大臣を、閏十月に太政大臣を贈るなど、次第に師輔系摂関家の守護神として転化してゆく。

怨霊として怖れられた道真ですが、これからは色々な性格が付与されていきます。菅原氏が道真の祖父清公以来つぎつぎと文人を輩出し、多数弟子を育成した学問の家柄であったことから学問・文学の神として崇拝されるようになる。雷神は、農民にとっては慈雨をもたらす農業の神でもあもありました。




文子天満宮

文子天満宮
境内看板

末 社 文子【あやこ】天満宮
祭 神 菅原大神(菅原道真公)
神 徳 入試・学徳成就
例祭日 四月第二木曜 神幸祭
    四月第三日曜 還幸祭

 道真公が太宰府で生涯を閉じられて四十年を経た天慶五年(九四二)、右京七条二坊(現在の京都市下京区千本通り七条辺り)に住む巫女多治比文子に菅公の心霊より、わが魂を右近馬場(現境内)に祭れとのお告げがあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊をお祭りした。これが北野天満宮の発祥である。
 その後、他の霊能者にも同じご神託が相つぎ、天暦元年(九四七)天満宮は現在地に移された。文子の住居跡は神殿につくり改め文子天満宮と称えられてきたが、やがて、西の京に移され、さらに明治六年この場所に遷座された。

地主神社等の摂社、上記文子天満宮等の末社合わせて40社があります。


摂末社


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home   更新:2012.03.17 作成:2006.10.22