八坂神社【やさか】(京都市東山区祇園町)

四条通を東に進むと八坂神社に突き当たる。八坂神社と呼ばれるようになったのは明治になってからで、以前は、「祇園社」「祇園牛頭天王社」【ぎおんごずてんのうしゃ】「感神院」【かんじんいん】等と呼ばれていました。八坂神社という名称は古い地名からとったもので、『和名抄』【わみょうしょう】のなかの山城国愛宕郡【おたぎぐん】八坂郷がそれです。また、祇園は仏教説話の祇園精舎から来ています。祇園精舎とは道場の様なもので、釈迦や弟子達が修行を行ったといわれているところです。牛頭天王はその祇園精舎の守護神だったといわれています。

南楼門

南楼門




舞殿

舞殿




拝殿と本殿が一体の社殿

拝殿と本殿が一体となった社殿




拝殿と本殿が一体となった社殿

祭神
素戔嗚尊【すさのおのみこと】
櫛稲田姫命【くしいなだひめのみこと】
八柱御子神【やはしらのみこがみ】

 室町時代後期の『二十二社註式』には以下の様に記されております。
祇園社は三殿に分れており、中の間が牛頭天王で、これを「大政所」【おおまんどころ】と呼んでおり、スサノオノミコト(進雄尊)の垂迹である。西の間は一名「婆利女」【はりめ】(婆利采女【はりさいめ】ともいう)、また一名「少将井」で、「本御前」と呼んでおり、奇稲田姫【くしいなだひめ】の垂迹である。東の間は「蛇毒気神」で沙渇羅王【さからおう】の娘で、「今御前」と呼んでいる。

 少将井とは、東洞院冷泉通にあった井戸で、ここは祇園祭の古い御旅所の一つでした。井戸の上に祇園社の神輿を乗せてお祀りをおこなっておりました。もともとこの井戸には少将井という女性の龍神が祀られていたのを、牛頭天王の妃神として祇園社に祀ったと考えられます。今御前は牛頭天王の第二夫人と考えられますが、いつのころからか、八王子とか八将軍とかいわれるようになりました。

スサノオノミコトと牛頭天王が習合した理由の一つに、牛頭天王は龍蛇の神と考えられ、スサノオノミコトの八俣の大蛇退治という蛇との関係、また一つに、天照大神の岩隠りの原因となる天つ罪【あまつつみ】をおかしたスサノオノミコトは祓われるべき存在であることと、行疫神としての牛頭天王との関係によると考えられる。
(松前 健 著「祇園天王信仰の源流」より)




格子戸が美しい社殿




格子戸が美しい社殿

鎌倉時代に成立した説話集『続古事談』には、祇園社の宝殿(現在の本殿)の下には龍穴があり、延久二年(1070年)祇園社が焼亡したおり、比叡山の梨本座主が龍穴の深さを調べようとしたが、五十丈(約160m)もあって底が知れないので調査を中止したと書かれている。保安四年(1123年)には、乱暴した山法師を朝廷で追捕したが、彼らは宝殿に逃げ込み深い溝に落ち込んで皆助からなかった。鎌倉時代の『釈日本紀』には、「祇園の神殿の下に龍宮に通ずる穴があるの由、古来申し伝う」とある。現在においても、当社宮司著述に「本殿の母屋の下に深い池があって、ちょうどその上に神殿が建てられている。その池には龍神が住んでいるという伝承が古くからあった」とある。

(松前 健 著「祇園天王信仰の源流」より)




吉兆縄

白朮火【おけらび】を移す吉兆縄(名張市郷土資料館にて撮影)
竹を原料とした火縄は、名張市上小波田でのみ作られている



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写真撮影:2016.01、2006.04
home   更新:2016.11.04a 作成:2011.05.29