安井金比羅宮【やすいこんぴらぐう】(京都市東山区下弁天町)

北境内入り口

京阪祇園四条で下りて、花見小路を下り突き当たりを左折して東に200mほど歩くと、右手奥にこの鳥居が見える。
東境内入り口

東大路通に面した入口
こちらの鳥居は、柱が四角柱の住吉鳥居
こちらが表参道になる?

掲示
安井金比羅宮
 祭神として崇徳天皇【すとく】、大物主神【おおものぬしのかみ】、源頼政【みなもとのよりまさ】の三神を祀る。
 社伝によれば、保元の乱(1156)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、建治年間(1275〜1277)に大円法師が建立した光明院観勝寺【かんしょうじ】が当社の起こりといわれている。その後、観勝寺は応仁の乱の兵火により荒廃し、元禄八年(1695)太秦【うずまさ】安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。
 本殿東の江馬館には、当社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されており、江戸時代の画家山口素絢【そけん】等の作品も含まれている。
 また、境内にある「久志塚」【くし】は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年九月の第四月曜日に櫛祭【くしまつり】が行われる。
京都市




拝殿

拝殿




本殿

本殿

安井金比羅宮『略縁起』(抜粋)

当宮御祭神

 崇徳天皇
 大物主神
 源 頼政
末社 天満宮社・稲荷社・八大力尊社・厳嶋社


金刀比羅大神の御分霊を奉斎

 保元の乱後、崇徳帝の車駕が讃岐のくにへ遷りまして後も、阿波内侍は、なお、この地に在って、日夜、追慕空しく海南の天を仰いで悲哀にくれ給う有様でありましたのを、風の便りにお聞き遊ばされた崇徳帝はあわれと思召し、束帯の御尊影に、随臣・源為義、同為朝の像を御自ら描き給うて、これを内侍に賜わりました。
 崇徳帝が崩御遊ばされましてより、哀悼の余り、遂に落飾し給うた内侍は、この御宸翰【しんかん】を、寺中の観音堂に奉斎して勤仕されたのでありました。
 治承元年(1177年)、後白河法皇の御代に、大円法師が御堂に参篭したところ、崇徳帝が御尊躰を現し給い、往時の盛況を示し給うたのに恐懼【きょうく】した大円法師は、直ちに奏上して後白河法皇の詔を蒙り、崇徳帝を奉斎すべく、その神殿を創建して其処に御自筆になる御尊影を鎮め奉りました。
 その後、第九十代・亀山天皇の御代に至って、天皇は更に神殿を改修し給い、以仁王の御子・道尊宮を蓮華法院門跡、当宮別当となし給い、これより八世の間、法嗣は綿々として継承されたのでありますが、応仁の乱後、院は荘園を散失し、堂塔社殿また荒廃に委せて昔日の影なきに至ったのでありました。
 降って、第百八代・後水尾天皇の御勅願によって、二条関白康通公の猶子・性演大僧正をもって院を再興せしめられ、当宮の別当となし給い、元禄八年(1695年)には、別当道恕が更に讃州象頭山金毘羅大権現の御分霊を御相殿に奉斎申し上げてからは、利生霊験殊に著しく、これより、いつとはなしに、世俗では、安井金比羅宮と称えまつるようになりました。時に、領地三百石を有して、社寺共に隆昌を極めたのでありますが、明治維新に際し、院を廃して嵯峨の大覚寺に合併され、境内の一部を割いて純然たる神社と成りました。是が則ち現今の境内でありまして、なお千五百余坪を有しているのであります。廃院の際に附随の建築物、記録等は大いに喪失しましたのを、爾後整理して、明治六年(1873年)村社に列し、更に安井神社と改称。同十五年(1882年)、郷社に昇格、指定神社の一つとして、洛中有数の神社たることを久しく認められてまいりましたが、戦後、宗教法人に改組されるに及び、古くから世俗に親しまれて参りました「安井金比羅宮」に復元、今日に至っております。
 当宮はまた、藤・山吹の名勝の地としても知られ、第六十二代・村上天皇の御製に
   まとゐしてみれとも
   あかぬ藤なみの
   たゝまくをしきけふ
   にもあるかな
と詠まれており、往昔、新更科とも称えられた観月の名勝でもありまして、中秋、洛陽の文人墨客が此処に集い、東山の月を賞したのでありました。現在月見町などとありますのは、その名の残りでありまして当時をしのばしめるものがあるのであります。


航海(海上)・交通(陸上)安全守護神としての当宮

 当宮は、創宮八百五十年を迎えましたがその間、元禄八年(1695年)には、讃岐の金刀比羅大神の御分霊を御奉斎申し上げております。
 御承知の通り、古くから「金ぴらさま」と申せば、航海安全の守護神とされております。また、金縁・開運成就の神さまとも知られているのでありますが、これすべて「道ひらきの神さま」でありまして、ことに往古は航海が唯一、危険のともなう交通機関でありましたため、航海安全の守護神とのみ解釈されたのでありまして、近代に至り、陸路の交通事故は筆舌に尽くし難く、こゝに本来の御神徳にかえり、広く『交通安全守護の大神』とたゝえ奉り、京都市における有数の金比羅大神御奉斎の神社として、交通安全守護神としての存在を漸く認められてまいりました。


当宮と御祭神
 当宮は、第三十八代・天智天皇の御代に、藤原鎌足公が一堂宇を創建して、自ら紫色の藤樹を植え、藤寺と号して家門の隆昌と子孫の長久を祈ったのに始まり後、第四十五代・聖武天皇の御代に至って、詔勅によって堂塔を改修増築して規模を拡張、観勝寺と改号されたと伝えられております。
 爾来、常に歴代天皇の御崇敬を得て参りましたが、中でも第七十五代・崇徳天皇は、この紫藤を愛し給い近衛天皇に譲位されて上皇とならせ給うてからの久安二年(1146年)−今から八百十六年の昔−堂塔を修造して寵妃・阿波内侍をこの地に住まわせられ、屡々御幸遊ばされておりました。
 当宮と主祭神・崇徳天皇との御関係に、一汐、意義深いものを覚ゆる次第であります。




縁切り縁結び碑 縁切り縁結び碑側面

縁切り縁結び碑



縁切り縁結び碑

上の写真撮影時より、約7ヶ月前に撮影した碑
膨大な御札で岩の形が解らない
碑に貼られた神札

神札
 

掲示
悪縁を切る 縁切り縁結び碑【いし】
奉製 石刻画家 山田光造
当宮の主祭神崇徳天皇自ら国家安泰を祈られもろもろ一切を断って祈願されたと云う故事に習い江戸時代より断ちもの祈願のならわしが続けられ縁切り祈願が生まれました。
旧きを脱皮し常に新しい新鮮な自分を甦らせる縁切り、もろもろの祈願を成就にみちびく縁結び共に歓迎。これは神道本来の祓いに通じる道と覚えます。
上部からの亀裂をつたって神の力は中央の円形に注がれ、夫々願いを素直に神札に記し、円形に向かって表から裏に(縁切り)裏から表に(縁結び)それぞれ心に祈りを込めてくぐりぬけて下さい。くぐりぬけられた後に、神札を石面に貼って下さい。
当宮では毎朝拝時に必ずこの碑にお祓いを行い清めをつづけて参ります。




狛犬吽形 安井天満宮 狛犬阿形

安井天満宮
こちらの狛犬は、どこか人間っぽい顔立ちに見えませんか?




三玉稲荷社・厳嶋社、三社

覆い屋の中に、三玉稲荷社・厳嶋社・三社がある。
三社?見落とした!
(安井金比羅宮のHPには、計五社が鎮座しているイラストがある)




八大力尊社

八大力尊社




久志塚

久志塚(櫛塚)
使い古したり傷んだりした櫛を供養するために櫛まつりが行われる
右手後方の社は桜之宮



神社の地図 ←地図   戻る

home   作成:2014.09.15