恋志谷神社【こいしや】(京都府相楽郡南山城村南大河原)

境内入り口

境内入り口

地図で当社を見つけたとき良い名前の神社だなぁと思った。
それから数年が過ぎたが、所用を済ませた日曜日の午後、ふと思い出しバイクで参拝に出かけました。
R163号線JR大河原駅近く、木津川にかかる潜水橋(恋路橋)を渡ると恋志谷神社はある。

写真の鳥居は柳生宗冬が寄進したものだ。左の掲示には以下のように書かれていた。
天満宮 石鳥居 大字南大河原
柳生宗冬公が父宗矩や2人の兄(長兄十兵衛・二兄友矩)の愛したこの土地の神社(正保4年に合祀。恋志谷神社・天満宮社)改築に伴いこの鳥居を建立寄進したものである。
 鳥居には名文が刻まれている。
    正保四年
  奉建立天神寶前石鳥居柳生主膳正宗冬敬白
    亥丁六月二十五日
 父や兄が柳生の主人公として深いかかわりのしるしに寄進したものであり、歴代の藩主がこの地を重要視したあらわれである。奈良県柳生の八坂神社の鳥居も同じく柳生宗冬が建てている。

南山城村教育委員会


江戸時代に恋志谷神社と天満宮社が合祀されたようだ。



境内

境内

恋志谷社の赤い鳥居の右手に石碑があり、その内容が以下のように掲示されていた。
恋志谷神社口碑傳説  大字南大河原

この碑にはこのように文字が彫られている。
「當社内ニ奉鎮座戀志谷姫神ハ人皇九六代後醍醐天皇ノ寵妃ニ座々セシト傳フ
天皇元弘元年笠置山ニ據テ北条高時ヲ討チ給フ官軍利アラズ翌貳年参月隠岐ニ移リ給エリ時ニ姫神病アリテ伊勢海邊ニ御療養セラレ御平癒アリテ笠置行在所ニ御皈途當區今ノ古森迄テ御着キ給ヒシニ帝既ニ御出行ノ後ナリシ由ヲ聞シ給ヒ悲憤極遂ニ御持病再發御自刃御崩御セラレシトカヤ
姫神御辞世ニ陛下ノ御身上ヲ愛慕セラレ亦身ノ病苦ヲ歎カセ給ヒ後世ノ人々ノ病苦厄難ヲ惠受セシムト宣エシト口碑ニ遺レリ以信者一同告ゲ之ヲ千古ニ傳フ」

現代語訳するとこのようになる。
当社に祀られている恋志谷姫神は、後醍醐天皇の側女であったといわれています。
後醍醐天皇は元弘元年(1331年)に笠置山で北条高時を討ち破りましたが、天皇の軍勢は旗色も悪く敗れてしまい、翌元弘2年3月に隠岐へ配流されました。
一方その時、姫は病気を治すため伊勢の海辺にいました。そして病気が治った後に後醍醐天皇がいた笠置へと向かう途中で、ここ南大河原の古森に着きました。姫は後醍醐天皇が既に笠置山を去った後であることを聞き、あまりの悲しみのため持病が再発し、自らの命を絶ったのでした。
姫が遺した辞世の句は後醍醐天皇を愛慕していること、また自分の病気を歎きながら後の世の人の病気や苦難をわが身に受けますとあったと言い伝えられています。そのためその言葉を人々に伝え、これを永遠に伝えます。」

南山城村教育委員会



恋志谷神社

鳥居額には「恋志谷神社」の文字
正面奥、流造の社殿が恋志谷社、右手に春日造の天満宮社




恋志谷社・天満宮社・八王子社

恋志谷社、天満宮社、八王子社




八王子社・国主社・西宮八王社・八幡宮社

八王子社、国主社、西宮八王社、八幡宮社




祓戸社

鳥居左手に祓戸社
大川社

大川社

境内の掃除をされていたご夫婦にお話をうかがう事が出来た。四十数軒で神社をお守りされているという。社殿は二十年ごとに建替えをされるそうだ。大きな社殿を建て替える時は、外氏子にも寄付をお願いするという。



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home   作成:2012.05.18