八幡神社【はちまん】(三重県伊賀市守田町)

参道入り口付近

桜に招かれた神社である。
バイクで走っていて桜の色が目のすみをかすめ、顔をそちらに向けたら、チラッと鳥居が見えた。
不覚にも、ここに神社があると今まで気がつかなかった。神社の前を走るR368を何千回と走っていたのに、である。
石柱には「八幡神社」とあった。




参道入り口

神明系のようだが反り増しの有る鳥居。長い参道だ。




参道の燈籠 長い参道脇にある燈籠

掲示

この山灯燈は四十九町並松地内に据えられていた お伊勢参り神明講の常夜燈で平成十年四月氏神境内地に遷移されました。江戸時代の初期宝永年間(一七0五年)には伊勢おかげ参りに約三百数十萬人の参拝者が宮川を渡ったと伊勢山田奉行の記録に残っています。
京、近江、山城の庶民は伊勢参りの近道として奈良街道(一六三号)を島ヶ原宿場を経て鍵屋辻『みぎいせみち』の石の道標をたよりに久米川畔、並松、並木両小場を通り二ツ峠より青山、伊勢路の宿場に向かったのです。
当時、並松地区には、松並木が延々と繁殖茂してその中にこの常夜燈は燦然と光を放ち、遊子の旅情を深めたものと考えます。

一九九八年 稲住宮司記



参道の両部鳥居

両部鳥居の額には「八幡宮」の文字




拝殿




本殿

本殿
境内掲示

長岡八幡宮由来記
古書によれば五世紀の末、「人皇二十五代武烈帝の御宇、伊賀国造中田麻呂勅を奉じて九州宇佐より阿蘇山の地に勧請す、山城国石清水より遙か以前の造立なり」とあり今より約一五〇〇年遡る、爾来機内に通ずる大和街道の要所に鎮座し、木津久米両河川合流の豊饒肥沃の地に農耕生活を営んだ古代人の信仰の対象であった。当時四十九院村には農耕神を奉斎した日吉、高松社あり奈良聖武帝の御代僧行基、諸国に精舎を建立の際、弥勒院を日吉社境内地に造立す、爾来弥勒院鎮守社として近世江戸末期まで世に謂う神仏習合時代として続くのである。四十九院地名の濫觴は弥勒菩薩の居所(兜卒天)の内院四十九の堂宇に模したものであろうか
 然し此の衆民素朴な神仏敬仰の昇平社会は天正九年(一、五八一年)織田軍数万の伊賀乱入により破られた、校正伊賀乱記に曰く
 邪見放逸の愚人共、神罰の恐をも顧みず、斯く秀たる神殿宝営を災滅し一時の灰燼となすこそ悲しけれ、子孫いかでか其の報を免る事を得んや、浅ましき所行なりと
かくて世は藤堂治世となり二代高次寛文九年九月罪状消滅、国土安穏、蒼生和楽の起請文を以て現在地に再建した、天正の乱より実に八十八年の歳月が流れた。
 近代に入り神社整理の嵐の中に合祀が実施され、明治四十一年十月、四十九院村鎮守の諸社は浅宇田村(現守田町)八幡社に合祀奉斎された、本年(一九八一年)茲に伊賀乱四〇〇年記念に際し、鎮魂の祈りを捧げて八幡社由来を記す。

八幡神社宮司 稲住佳生 謹記
昭和五十六年辛酉六月晦


本殿の装飾


本殿の装飾




庚申塔



神社の地図 ←地図  戻る

home   作成:2010.04.18