敢國神社【あえくに】(三重県伊賀市一之宮)

境内入り口







拝殿への階段

拝殿




社殿

拝殿の裏に本殿がある(当然)のだが、よく見えない。

敢國神社で頂いたしおりから

御祭神
主神 大彦命【おおひこのみこと】
配神 少彦名命【すくなひこなのみこと】
配神 金山比め[口+羊]命【かなやまひめのみこと】

御神徳
 大彦命は第八代孝元天皇の皇子で、崇神天皇御代四道将軍のお一人として北陸未開の地を教化した後、伊賀の国に永住せられ、国家繁栄の礎を築かれました。 命の御遠征による御活躍にあやかり交通安全その他、健康長寿の神として御霊徳を仰がれて居ります。 また少彦名命は医薬・酒造の祝神で、世に恵美須様と称し商売繁盛・大漁豊穣の守護神としてその御沢尽くるところがありません。 金山比当スはその御名の如く採鉱冶金機械工業など、近代産業に霊験を垂れ給う守護神であらせられます。

御由緒
 当社は古来伊賀の国の一宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳も浴してまいりました。
貞観の頃には神階五位を授けられ、延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が幸行ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。徳川時代には藩主藤堂家の崇拝厚く、社殿調度の修営・神器社領の寄進、祭儀神事の復興等が行われました。明治四年五月国弊中社に列せられ今日に至っております。

敢國神社 略史
 当社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは7世紀の中期、658年という年に創建されました。
 創建当時は大彦命・少彦名命の二柱で敢國神社が創建されました。  創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命【おおひこのみこと】は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和国に生まれた方だとありますが、大和朝廷創建期の武人として、その子建沼河別命【たけぬまかわわけのみこと】と共に北陸東海を征討する役目を負われ、四道将軍の一人として、第10代崇神天皇の命を承け日本の東国の攻略を果たされた方です。この大彦命が大和朝廷に帰服【第7代孝霊天皇時)して以来、伊賀の国を本貫の地として駐屯され、事実上の伊賀の領主であり、子孫は伊賀の国中に広がっていきました。伊賀の国の阿拝【あえ】郡を中心に住居したため阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安部【あべ】とよばれるようになりました。あべ氏の総祖神であると共に伊賀人の祖神でもあります。
 古代伊賀地方には外来民族である秦【はた】族が多数住んでおり、彼らが信仰する神が当社の配神である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山頂上付近にお祀りしていましたが、創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りして現在に至っております。私達伊賀人はこの二神の混血の民族でもあります。
 創建後、南宮山の少彦名命の社殿が山の下に遷された跡地は、新しい神社創建に当たっては混血の一族の有力者の人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。結局美濃国の南宮社の社神である金山媛命【かなやまひめのみこと】を、旧少彦名命のお社の跡地に勧請致しました。
 この頃「南宮山」という名がついたのではないかと推測されます。
 その南宮山の金山媛命が、敢國神社の本殿に合祀されたのは、創建時より319年後の977年のことです。
 ある日突然金山媛の社殿が激しい音をたててゆれ、止むと同時に社前の御神木の幹に、虫食いの痕が文字となって現れ「與阿倍久爾神同殿」という八文字でした。神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早速主家の藤原兼家に報告、直ちに神慮に従って金山媛命の遷座合祀が行われました。  こうして当社は三神をもって敢國神社・敢國津大神【あえくにつおおかみ】となって現在に至っております。  少彦名命を主神とする秦族は、外来氏族で色々な技術文化を伝えてくれています。例えば伊賀の組紐・伊賀焼・酒造などがあります。
 また芸能にも見られ、鎌倉時代に盛んになった田楽の祖・観阿弥は伊賀の出身者であります。田楽が武士階級の娯楽に発進し、また同じ頃に獅子神楽が庶民階級で発進していきました。当社に伝わる獅子神楽【三重県無形文化財指定)もこの時期に出来たものであろうと言われています。現在伊賀地方各町で執り行われている獅子神楽の原型とも言われ、伊賀神楽に多大な影響を及ぼしたとも言われています。
 現在当社は伊賀国の一の宮として家内安全・交通安全・商売繁盛・厄除芸能祈願の御参拝者で伊賀地方の方のみではなく、愛知・岐阜・北陸・関東地方より多数御参拝いただいております。




大石社

大石社

境内掲示

奉納  一之宮 柳本為朗
大石社【おおゆわやしろ】について
御祭神
 須佐男命 金山比古命
 大山祇命 大日■[雨/口口口/巫]命
 大物主命
由緒
伊賀一宮敢國神社の末社として鎮座創立年代は不詳である一之宮より中瀬字寺田に至る道路の左傍に大池あり池の東方山麓に岩石ありてこれを黒岩といふ大石の社名はこの岩石よりつけられたものであらう大石社独立時代の祭神は文献なく知る由もない明治四十三年三重県の指令により村内にある津島神社と琴平社を大石社に合祀した社殿は明治四十四年の暴風雨により到潰したが大正二年に再建された
 津島神社は元村社で当時来迎寺の南五十米のところ(現在民有地の畑)に鎮座され境内も広く大鳥居御社殿参集殿など建立されていた尚愛知県津島市に鎮座する本宮津島神社を崇敬する人々が徳川時代中期より津島講を結成しその講員は来迎寺の檀家衆及び敢國神社の氏子によってその年長者より十一名を定められその活動を現在も存続している
琴平社は妙慶寺東百五十米東山の上平地に鎮座され津島神社と同じように鳥居御社殿参集殿なども建立されていたが両社ともその思影は殆ど見当たらない香川県のこんぴらさんを崇敬する妙慶寺住職を始め九人の講員が現在講を持続している

御祭典日
 元始祭  一月三日
 春 祭  四月二十四日
 祇園夏祭 七月二十八日
 秋 祭  十月十五日

昭和六十年六月吉日
宮司 太郎館季幹 記




摂末社 摂末社
摂末社 摂末社

摂末社



御神水井戸

延命 御神水井戸
桃太郎岩

境内掲示

桃太郎岩
古伝によりこの桃太郎岩は今を去る五百五十年前南宮山山頂(前方に聳える山)からお遷し申し上げ、安産及び子授けの守護の霊岩として全国各地より信仰をあつめて居ります。
御祈願を社務所の方におこし下されば岩田帯及びお守りを授与いたします。



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撮影:2008.03撮影
home   作成:2010.03.28