花垣神社【はながき】(三重県伊賀市予野)
掲示
花垣神社
花垣神社は千年以前から池邊社、春日社を祀る歴史の古い神社である
春日社はその昔、都へ八重桜を献上した由緒で奈良の春日神社を勧請した.
以後は明治中期までは春日神社、明治後期から昭和初期までは三郷神社と称されていたが昭和五年、
社号を改称して花垣神社として祀り続けられている
当社に残る多くの棟札から現在の社殿は江戸時代初期、
予野出身の上野城の城代家老藤堂采女【うねめ】に依って寛永二年(一、六二五)に再建されたものでその後、
五代、六代の藤堂采女に依って拝殿、鐘楼が建立されてきた.
本殿は近隣に見られない彩画が施されていて華麗である
平成二十九年十月
花垣神社
予野区
花垣歴史研究会
参道入り口
鳥居をくぐって振り返る。桜がまず目に入り、神橋、さらに奥に交差点が目に入った。
そうだ、昔、右から左にバイクで走っていて赤い鳥居がちらっと見えたのだった。
非常に印象深かったのか、ずっと記憶に残っていた。地図で確認した花垣という社名も良く、さらに好印象を持った。
神社巡りを本格的に始めて、比較的早くに当社に参拝している。
絵の仲間Oさんも、雪の花垣神社を描かれている。(リンク覧「おちこちの風景」からご覧になって下さい。)
大きな割拝殿?がある
割拝殿?より内拝殿?を望む
左手に御神木が、右手に別当寺であった池邊寺【いけべじ】がわずかに見える。
本殿
掲示
御祭神
経津主命【ふつぬしのみこと】
武甕槌命【たけみかつちのみこと】
天児屋根命【あめのこやねのみこと】
比売大神【ひめおおかみ】
相殿七大神
2001年7月に参拝した時の本殿
私は、古色蒼然とした感じも好きだ。
参道に「花垣神社御鎮座一千年紀念 平成の大造営記念碑」があった。
「平成十六年甲申歳十二月挙行」とあり、本殿に関しては「屋根銅板葺替え、全体の塗替え、」等々が列記されていた。
拝殿に以下の文書が沢山置かれていたので一部頂戴した。
花垣神社明細書
由 緒 創立年月日 寛弘元年
旧社格 村社 明治六年三月列格
当神社は往古より現在地に鎮座ましまし、御祭神経津主【ふつぬし】神・武甕槌【たけみかづち】神・天児屋根命【あめのこやねのみこと】・姫【ひめ】大神を大字【おおあざ】予野字【あざ】花前百九十四番地春日神社と称し明細帳に其の由緒「右社の義は人皇第六十六代一条院の御宇、当村地名花が谷に一株の名樹あり、是八重桜なり。即ち此樹を献上す。而るに帝叡覧あり深く賞讃感悦し給い、宮門内に植置かれ給ふ。故に其の後年々当村の民族を徴され八重桜周囲に垣を造らせ給ひ、又花の満開七日間の宿直を命せられ是を守衛し奉る。因て此賞典として公事の賦役を許され、花垣の庄の地名を賜ふ。而る後其の樹跡より又一本の八重桜生出して、数百年の今日に至りて尚存せり。
其の所縁を以て寛弘元年(1004年)に方り、南都春日の神爾勧請を乞ひ奉りしに、速に勅許ありて同年花垣の里に奉遷し、則ち当村の産土神と崇敬し祭祀の礼典闕怠なく重く奉事して聯綿歴然なり。最も地名五ケ庄とも又予野郷とも称して、乃ち予野、治田、白樫、大滝、桂五ケ村の冠たる所以は、巳に花垣の名称あるを以て也。故今変せす右等の邑より尊崇敬事す」とある。
後明治41年(1908年)一月九日許可を得て大字予野無格社境内社二十社、同四十一年四月二十七日許可を得て大字大滝村社建部神社外五社、同四十一年五月十二日大字桂式内社乎美称神社外四社を合祀し、四十一年九月十九日許可を得て三郷神社と改称、更に大正十三年(1924年)十一月十二日許可を得て花垣神社と改称現在に来る。
当神社境内地壱千百参坪は昭和二十二年法律第五十三号によって国第一二0二号昭和二十五年二月二十八日附を以て無償譲与許可になる。昭和二十六年十月九日登記完了した。昭和二十一年二月二日勅令第七一号に依り社格廃止、昭和二十一年二月二日勅令第七0号宗教法人令に依り同年五月十日三重県知事に届出宗教法人となる。
神社規則承認 三規承 昭和二十七年四月一日 第四十八号
御神木
こちらの御神木には掲示があって、メインの様だ。主祭神はこちらから降臨される?
掲示
花垣神社の御神木
大杉
樹高 三六米
胸高周囲 四.四一米(目通り)
樹齢(推定) 二五0年位
掲示 一里【ひとさと】は皆花守【みなはなもり】の子孫【しそん】かや 元禄三年(一六九0)芭蕉四十七歳の作。季語「花守」で春。芭蕉真蹟懐紙に「この国花垣【はながき】の庄は、そのかみならの八重桜の料に備へられ侍りけるとかや、ものにも書【かき】つたへれ侍れば」と前書する。奈良の八重桜伊勢大輔の「いにしへの奈良のみやこの八重ざくらけふ九重ににほひぬるかな」(『詞花集』)の歌にも有名な桜。『沙石【しゃせき】集』等の説話集に、平安の昔、一条天皇の后上東門院【きさきじょうとうもんいん】が奈良興福寺の八重桜を京に移そうとしたところ、僧徒らが強く反対、后はその風雅心に感心し、伊賀国余野【よの】の庄を興福寺領に寄進、花垣庄となづけた。これにより、里人は毎年奈良に赴き花垣を結い、花の盛り七日間は宿直【とのい】を置き守らせた、との話がある。三月下旬頃、芭蕉はここ花垣庄を訪れ、古【いにしえ】の風雅を偲び、土地の人に挨拶の意を込めた即興句。 句意は、「ここ花垣の庄は、その昔、奈良の八重桜の咲く頃は花垣を結い、里人が宿直をして桜の花守をしたという由緒深いところである。今でも、この一里の人たちは皆、花守の子孫なのであろうか。」 掲示 芭蕉句碑 この句碑は、元禄三年(1690芭蕉が予野を訪れて詠んだ句を碑石にしたものであるが、この句碑を再建した時の謂【いわ】れ書きが花垣神社の棟札にあって、池辺寺の二代目の住職の呼びかけで、天保六年(1835))村中総出で四方十町(一粁余り)の所から引き運んできて建立し、文字は左側面の名前の川口右門の筆によると記されてある。江戸時代に建てられた伊賀にある芭蕉句碑の数少ない(六基)一つである。 平成二十一年 花垣歴史研究会 |
写真:2020.04、2001.07撮影
home 作成:2020.04.26