菅原神社【すがわら】(三重県伊勢市御薗町新開)
伊勢神宮外宮の摂社である河原神社・同座の毛理神社【もり】に向かうべく歩いていて、道を間違えてしまった。「お伊勢さん125社めぐり」(伊勢文化舎発行)の地図に則り歩いているつもりが、なかなか国道23号線に出ない。たまたま庭に出ておられたご婦人にたずねたら、一つ手前の信号を左折したために、北に向かわなければならないのに西方向に進んでいたことが分かった。「臥龍梅を見に行かはるんですか?臥龍梅はすごいですよ。一本の枝に沢山の実が成るんですよ。」とその婦人が言われる。そういえば「お伊勢さん125社めぐり」に満開の写真がでていたし、地図にも菅原神社の隣に臥龍梅公園が書かれていたのだった。伊賀地方より伊勢の方が暖かいから満開の梅が見られるかもしれないと思い、河原神社の近くなので寄る事にした。来た道を信号まで戻り、2、30分ほど歩いただろうか。地図からすると、この辺りに鳥居が見えなければならないはずだが、見渡しても鳥居も杜も見えない。自転車で通られた男性に「菅原神社に行きたいんですけど。」と聞くと、「臥龍梅見に来はったんか。道分かりにくいんで案内したげるわ。」とご親切にも自転車を降りて、住宅の間をぬける細い道を案内して下さった。臥龍梅は地元の方にとって特別の存在の様だ。
まずは菅原神社に参拝
菅原神社の境内が臥龍梅公園なのか? 臥龍梅公園の中に菅原神社があるのか?
秋葉神社
菅原神社の境内社になるのだろうか? 石仏も数体並んでおられる。
参拝したのは2012年3月3日。寒さが厳しく、梅はほんのわずかしか咲いていなかった。
写真の掲示には以下の様に書かれていた。
掲示 臥龍梅【がりゅうばい】 (昭和四十六年八月一日 伊勢市指定天然記念物) 新開の臥龍梅は、齢一千餘年と称せられる。人皇六十代醍醐天皇の御代菅原道真公は、右大臣として仕えていたが、左大臣藤原時平の中傷により、延喜元年(西暦九○一)太宰権師【だざいごんのそつ】に左遷され、御心憂のうち、延喜三年(西暦九○三)配流の地に没した。その間、御傍に仕えていた今村刑部師親【いまむらぎょうぶもろちか】に、このまま筑紫の果てで朽ちてしまったら、身に負う冤罪を雪【すす】ぐことすらできないと、崇敬【すうけい】されていた伊勢神宮に代参させて、日ごろ賞愛の梅を伊勢の地に奉納植樹させ冤罪【えんざい】の晴れるのを祈願した。 その梅が臥龍梅であり、「コノ梅ハ成長シ、日本無双ノ名木トナルベシ」と申されたと「勢陽五鈴遺響」に綴られている。 現在も臥龍梅は、春二月から三月にかけて、花は紅白の八重で一つの花にめしべを多数もち、実を多く結ぶという珍しい梅で「座論梅」とも又「八房の梅」(三重県植物誌)とも呼称されている。新開区で管理し、枯死寸前になった臥龍梅の保存のため、古木の素木を、実生、さし木、接木等により、若木を育成し、補植している。 (参考文献)勢陽権記・勢陽五鈴遺響・三重県植物誌・臥龍梅小誌・御薗村誌 伊勢市教育委員会 |
臥龍梅公園内で、この日一番多く咲いていた一本 |
臥龍梅というからには幹が地面を這う様な梅の古木をイメージしていたのだが、それらしき梅を見つける事が出来なかった。しかし、東屋におられた地元の男性の方々とお話することができ納得した。その内容は以下の通りである。
現在、臥龍梅公園には約60本の梅があり、約40本が臥龍梅だという。地面と平行に幹を伸ばす古木のモノクロ写真を見せて頂いた。まさしく臥龍梅という名にふさわしい姿だった。その子孫の40本が現在の臥龍梅ということだ。子孫の臥龍梅は先代に比べまだまだ若輩であるが、すごい特徴を受け継いでる。
以下の3枚のお写真は、地元の西垣勝也さんから頂戴致しました。HPへの掲載も了解して下さった。
感謝 m(_ _)m
中心部に薄緑色の雌しべがあるのだが、なんと、ざっと数えても10本もある。
全ての花がこれだけの数を持つわけでは無いそうだ。
2011年の花を観察したところ、多いもので21〜22本あったそうだ。
雌しべが多くても受粉しなければ実にはならないし、受粉しても狭い空間のため、育つまでに落ちてしまう実も多い。
一つの花から8個の実が育っている。一つの花柄によって枝につながっているのだ。
4月末頃から5月始めにかけて育った実を見られるそうだ。
花と実をたのしむことができる臥龍梅である。
home 作成:2012.03.07