陽夫多神社【やぶた】(三重県伊賀市馬場)

近世の『伊水温故』に「高松祇園、延喜式陽夫多社」とあり、『三国地志』に「藪田社・川合社・高松宮、皆同社号なり」とある。また古くは文明五年(1473年)の一条兼良の『ふち河の記』に、「王滝(現阿山町内)をたちて、かはゐ(河合)といふ所をとをる。ひとつはし(橋)あり、高松宮は右のかなたにありてみやる。牛頭天王にてましますとかや」とある。(『日本の神々6』)
同書に「主祭神は高松神と須佐之男命である。」と書かれているが、境内の掲示に「高松神」の名は見えない。

境内入り口

境内入り口




神橋

神橋
橋を渡ると左手に一条兼良の歌碑がある。
「ゆふかけて 猶こそきかめ ほととぎす 手向けの声の 高松の宮」

掲示

一条兼良の歌碑
一条兼良は室町時代の國文学者でかつて関白太政大臣の職にあった。五摂家の出身であり後世和学の(國学)の祖と仰がれた人である。晩年応仁の戦乱を避けて奈良へ疎開中に美濃へ下向した帰途近江水口から玉滝寺を経て当神社前を通りし時にこの歌を詠む。
文明五年(1473)五月廿六日
前方に架かる高松橋では「渡りえぬ 浮世の波におほられて かわ井の橋を ふむぞあやうき」とも詠んでいる。
「後成恩寺道之記」より
中 主須武 記




手水鉢に「藪田社」の文字

手水鉢には「藪田社」の文字




杉の巨木 杉の巨木

下拝殿後方、杉の巨木が印象的な神社だ




拝殿

拝殿




境内石碑

延喜式内 陽夫多【やぶた】神社由緒記

鎮座地 三重県阿山郡阿山町大字馬場九五一番地

御祭神
 健速須佐之男命
 五男三女神 天之火明命 火之迦具土神 香々背男命 大物主命
 大山祇神 大日霊貴命 宇迦能御魂神 伊邪那岐命 伊邪那美命
 速玉之男神 事解之男命 天兒屋根命 蛭子命 菊理比賣命

由 緒
 当社は延長風土記に「押盾天皇戌午国造多賀速祭之也」とあり、和名抄、伊賀風土記によると、伊賀河合郷の総社にして人皇第二十八代宣化天皇三年(西暦五三八年)に国中に疫病が流行したので屏息祈願のため伊賀国造多賀連が創建したとある。世に高松神、河合天王の称あり

御神徳
 当社の主祭神健速須佐之男命は自から祓い清めることを実践された神様で古来より「厄病難守護」の信仰が篤く、産業、文学(歌道)の神として崇敬されている

主な祭典と神事
 祈年祭 二月十八日 裸々おし
 例祭 四月二十日 羯鼓踊(文化財) 餅まき 少年剣道大会
 祇園祭 八月一日 精進祭 七月二十五日 宵宮祭 七月三十一日 花火奉納大会
 本祭 八月一日
  深湯神事 神輿神幸式 願之山踊(文化財) 花傘取り
  大幟 宵宮祭早朝、長さ三十五米の大幟が各字氏子中から七基奉納される
  神井 祇園祭前後約七日間湧く、この水何年経過するも腐敗することなし
神水としての信仰あり
  新嘗祭 十一月二十八日

社 宝 祇園丸(五百石船の縮尺)明和四年(西暦一七六七年)作
 神 鏡 二面 銅円形 直経二尺 銘「正一位藪田神社平安城住天正九青盛重 造之」
 宣 旨 薮田神社正一位 文化十四年
 鐘   青銅製 径三尺 高六尺 銘「寛文七年乙未暦三月吉辰鋳造」
 懸 佛  二面 青銅製 鉄製
 刀 剣 八振 鎧兜 外武具一式

境内社
 八柱神社
  御祭神 大山祇神 火之迦具土神 五男三女神 金山比賣神

宮司 神田徳夫 記

現在地 三重県伊賀市馬場九五一番地




本殿と摂末社

摂末社と本殿(奥)
本殿の左右には、陶製の狛犬が控えている。(伊賀焼きでしょうね。)




梵鐘 境内掲示

陽夫多神社 梵鐘【ぼんしょう】

阿山町指定文化財

江戸時代、寛文七年(1667)の銘があり伊賀地方で3番目に古い。総高約1m59cm、口径92.5cm、仁兵衛の作で左記の文字が刻まれる。
伊州綾之郡河合郷高松山
牛頭天王鐘国符
太守鎮護安泰
勧家附之道俗請
男女之志不曰
早成畢而巳
干時寛文七丁未暦三月上吉辰
治工 仁兵衛作之

阿山町教育委員会



宮山三号墳

宮山三号墳(完存する直径20mの円墳)
「やぶた古墳の杜 散策道案内図」より抜粋

陽夫多神社宮山周辺の古墳と中世の城跡

陽夫多神社の宮山の森とその周辺には、古墳十一基と中世の城跡三城が確認されている。宮山頂上にある宮山一号噴は、全長四十二メートルの前方後円墳で六世紀の前半築造が窺え被葬者は、当時、この地域を支配し陽夫多神社の創始に関係した有力者と思われる。平地に築かれた御旅所古墳は、大きな横穴石室を有し墳形については地籍図等から前方後円墳の可能性もあり、宮山一号墳に続く首長墓と言える。円墳は、九基が確認され六世紀後半の横穴式石室のものが三基ある。中世の城跡では、宮山一号〜三号城跡がある。
天正年間の織田信長による伊賀侵攻の際の築城が窺え、二号城跡は、急造のためか東側の空堀や土塁は未完成である。三号城跡は、全体に規模が小さく、織田軍が築いた陣城の可能性もある。

河合地域住民自治協議会

柘植から、小杉、友田と自転車で走って来て、偶然出くわしたのが、当社の祭だった。興味を持ち自転車を降りて境内に足を運んだ。沢山の巨大な幟にビックリしたことを記憶している。多くの浴衣姿の男女が行き交い、別世界に飛び込んだ様だった。1980年代頃の話だ。「陽夫多」の文字は、看板で知っていたが何と読めば良いのかさえ分からなかった。参拝目的で再訪したのは、約20年後である。運動場の様な境内の広さに驚いた。自転車で来た時は、たぶん奥まで入らなかったのだろう。
陽夫多神社のもう一つの古い記憶は、ある女性が言った言葉だ。「陽気な夫が沢山いる神社なんですね。」


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home   作成:2013.06.27