葛城一言主神社【かつらぎひとことぬし】(奈良県御所市森脇)

葛城一言主神社一の鳥居?

葛城古道に面して立つ鳥居。一の鳥居になるのだろうか?
額には「葛城一言主神社」の文字
前回は車で来たのだが、左手からカーブして鳥居横の道に侵入するのが少々恐かった。
この日は風の森から歩いて当社に着いた。
『街道をゆく1』(司馬遼太郎著)中の「葛城の道」には一言主神社のことが書かれている。その一節に「石段を降り、ふたたび松並の道をたどったがこの松林もちかじか建設省の手で伐られるのだという。二上山のほうからここを通って和歌山へゆく新産業道路ができるそうで、・・・」この新産業道路とは30号線のことだろうか。事実、この鳥居をくぐり社殿のある西方向へ進むと、30号線の下を通って、下の写真の鳥居に至る。松は見なかったが、以前は松並木を進む参道だったのだろう。




葛城一言主神社二の鳥居?

良い雰囲気の参道だ。鳥居の額には「一言主神社」の文字。
鳥居の左の柱の後ろに蜘蛛塚がある。


蜘蛛塚

蜘蛛塚




(以下2011年6月撮影)

参道

平日のこの日は雨だった。にもかかわらず、参拝される方がいる。
私一人になることがあっても、すぐにまた参拝に来られる人がいる。
司馬遼太郎さんもこの石段を利用されたのだろう。




祓戸社

手水鉢の奥は、祓戸社




雨の一言主神社境内

境内
大銀杏と拝殿。このとき雨が結構強かった。
雨の中の撮影は、知らぬ間にレンズに水滴が付いていた等のリスクがあるが、雨の神社は嫌いではない。




一言主神社拝殿

拝殿

境内掲示

葛城一言主神社
御祭神 一言主大神 幼武尊

本社は雄略天皇が葛城山で狩りをされた時 雄略天皇四年春「吾【ア】は雖悪事、而一言【マガコトモヒトコト】、雖善事、而一言【ヨゴトモヒトコト】、言離之神【コトサカノカミ】、葛城之一言主之大神【カツラギノヒトコトヌシノオオカミ】なり」と、この郷(神隆)に顕現された神様を御奉斎しています。延喜五年制定の「延喜式」では明神大社に列し、祈年・月次・新嘗・祈雨のお祭りには官幣に領り、文徳天皇(嘉祥三年)をはじめ歴代天皇、特に後光厳天皇から神格「正一位」が贈られる(延文五年)等宮人や歌人・各階にわたる崇敬の念厚く伝教大師最澄も入唐に際し祈願された(延暦二三年)霊験高き最古の神社であります。近世では「いちごんさん」と、呼ばれ一言の願いであれば何事も聴き下さる神様として、崇め親しまれ広く信仰されており。また全国各地の一言主大神を御祭神とする神社の総本社であります。

幼武尊:大泊瀬稚(幼)武尊【おおはつせのわかたけるのみこと】、第21代雄略天皇。
一言主神と雄略天皇が葛城山で出会ったという記述が『古事記』にある。雄略天皇が百官を引き連れ葛城山を登っていると、向かいの山の尾根こちらとまったく同じ格好をして登っていく一行を見つけた。「大和の王は私をのぞいてほかにはいない。同じ格好をして登っていくのは誰だ!」と大声でおっしゃったら、相手方もまったく同じ言葉を返してきた。怒った天皇は、矢をつがえ、百官の人達も矢をつがえた。すると、相手方も同じ様に矢をつがえてきた。「お前の名を名のれ!お互いに名のり矢を放とう。」「私が先に問われたので、先に名を申そう。私は、悪い事にも一言、良い事にも一言を言い放つ、言霊【ことだま】の恐ろしい力を持っている、葛城の大神だ。」聞いた天皇は恐れ謹んで、弓矢や太刀を始めとして百官の人達の着ている着物を脱がしめて、大神に拝礼して奉りなさった。大神はよろこび、献上されたものを受け取りなされた。天皇が帰られるとき、大神御一行は山の頂上に集まって、天皇が長谷の山口に到着されるまでお見送りされたという。
『日本書紀』には、雄略天皇は狩りをするため葛城山に登ったとある。長身の人と出会い天皇は「どちらの公か?」と問う。「現人神である。あなたが先に名のりなさい、そしたら私も名のろう。」「私は幼武尊【わかたけるのみこと】である。」背の高い人は「私は一言主神【ひとことぬしのかみ】である。」と答えた。そして一緒に轡を並べて狩りを楽しんだという。

『釈日本紀』【しゃくにほんぎ】には「一書に曰く」として、「時ニ神、天皇ト相競【きそ】ヒ、不遜ノ言アリ。天皇大イニ怒リ土佐ニ移シ奉ル」とある。葛城山での会話が不遜であるとして、一言主神を土佐に流したというのだ。同じく『釈日本紀』に「土佐ノ国ノ風土記ニ曰ク」として一言主神の社が土佐にあると書いている。事実、高知市の土佐神社は一言主神をお祀りしている。司馬遼太郎さんは「街道を行く 第一巻 葛城みち」で「しかし神を追い出すというのはちょっと困難な作業で、要するに人間そのものが追放されたのであろう。」、一言主神を奉斎する葛城王朝の遺民が土佐に流された結果と書かれている。それから三百年後、天平宝字八年(764年)高賀茂田守【たかがものたもり】が一言主神を呼び返して頂きたいと朝廷に奏して赦され、古代葛城王朝の宮殿のあった場所と考えられる高丘に神祠をたて現在に至る。

『日本霊異記』には、役行者が葛城から吉野まで岩橋を立てようとして、一言主神をこき使う話が出ている。『日本霊異記』は822年頃薬師寺の僧景戒によって書かれた書物と言われ、仏法の尊さが主題である。神道をおとしめることで、仏法の優位性を言いたかったと思われる。




一言稲荷神社

鳥居の奥に一言稲荷神社。その右手に摂末社が並ぶ。




摂末社

奥から、市杵島社、天満社、住吉社、八幡社・神功皇后社




土蜘蛛塚

土蜘蛛塚
境内掲示

謡曲「土蜘蛛」と蜘蛛塚

 僧侶の姿に化身して源頼光の病気見舞いに行った害悪の権化土蜘蛛は、見破られると、「汝知らずや我むかし葛城山に年を経し土蜘蛛の精魂なり」と大見栄を切り、千筋の糸を投げかけて頼光を巻き殺そうとした。
 頼光は枕元の膝丸の名剣で切りつけ、四天王渡辺綱たちは血の跡を追い蜘蛛の棲家をつきとめて遂にこれを退治した。その所に「頼光朝臣塚」の碑があり、謡曲はこの説話をもとにして作られたものである。
 後世、その塚の辺りから発掘された筒石を庭に置くと、家運は傾き、病人が続出する有様に、またもや蜘蛛の祟りかと恐れ、これを安置して土蜘蛛燈籠として供養すると騒ぎは治まったという。
 そのように京で暴れた土蜘蛛も、今はもとの大銀杏の木陰の棲家で静かに眠っている。
謡曲史跡保存会



亀石

亀石
土蜘蛛を封じた石?悪い蛇を封じた石?




願い石

願い石(宮司さんが、確かそのように言われた。)




御神木の銀杏 御神木の銀杏

御神木の銀杏

境内掲示

保護樹木(いちょう)
平成9年7月18日指定
幹の途中から乳房のようなものがたくさん出ており、「乳イチョウ」「宿り木」と呼ばれている。この木に祈願すると子供を授かりお乳がよく出ると伝えられており古くから親しまれてきた。白い蛇が住みついているといわれ人々の信仰を集めている。

御神木
樹齢一二00の老大木でえある。宿り木とも呼び、健康な子供が授かりお乳がよく出る。古くから子供を思う親の願いがこめられ、地元の人々の信仰を集めています。
葛城一言主神社

神社の地図 ←地図  戻る

掲載写真:2011.06、2017.05撮影
home   更新:2017.07.09a 作成:2011.10.01