高天彦神社【たかまひこ】(奈良県御所市高天)
注連柱
神社へ至る自動車道は右手を巻くように登る
注連柱のある辺りから平野方面を望む
高天は、標高450m近い辺りにも水田が広がる。きれいな水の流れを数カ所で目にした。
当社は、金剛山の中腹、東に張り出したテラス状台地に鎮座する。この台地には「史跡 高天原」の石碑が建っている。「高天原」は、日本神話に出てくる重要な名だ。鳥越憲三郎氏は『神々と天皇の間』の天孫降臨の条で以下の様に語る。
ここ高天は葛城族の本拠地であり、葛城王朝の発祥の地であった。事代主神を奉斎する鴨族が農耕生活をしている地(御所市の町の北はずれ、葛城川に沿う沃地)に、高皇産霊神を奉斎する狩猟・畑作が中心だった葛城氏が下っていき支配したことに由来する伝説が、天孫降臨神話の元になったのではないか。
高皇産霊神【たかみむすびのかみ】は高天原側(征服者側)の司令官で建御雷神【たけみかづちのかみ】を使者に立てる。事代主神【ことしろぬしのかみ】は、大己貴神【おおなむちのかみ】(大国主神)の息子で、父から交渉をまかされた出雲側(被征服者側)の神とされているが、記紀が編纂された時代の支配地を考慮して、伝説地の規模を拡大したことによると考えられる。国譲りは出雲で、降臨の地が南九州というちぐはぐも、それが理由ではないか。
参道
社殿が見えてきました |
参道を振りかえる |
境内入り口
掲示
高天彦神社 御所市高天
御祭神
高皇産霊尊【たかみむすびのみこと】
由 緒
天照大神の子の天忍穂耳尊【あめのおしほみみのみこと】に本社の御祭神の娘、栲幡千々姫【たくはたちじひめ】が嫁ぎ、御子の瓊々杵尊【ににぎのみこと】が高天原から降臨される。その神話に言う高天原がこの台地である。
御祭神を祖神とした葛城族は、大和王朝に先行する葛城王朝を築き、亡びた後も平群・巨勢・蘇我の豪族として栄えた。 延喜の制では、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には、官弊に預かってきた神社である。
平成二年十二月吉日
寄贈 御所ライオンズクラブ
掲示
高天彦神社【たかまひこ】
当神社は金剛山中腹の脱塵幽谷のこの勝地に鎮座し、社殿が出来る以前より背後の円錐形の峰(白雲岳)を御神体とされて、高天彦大神、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)始め市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、菅原道眞公を祀って御祭神と成っています。
本殿の高皇山霊神は、高御産巣日神とか高木神などと記され古事記の冒頭に登場しています。
「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき」(岩波文庫)と記されて、高い位の神様とされています。
天孫降臨や神武神話の重要場面で高天原の指令者として大活躍をする(日本書紀)神様とされています。
高皇産霊神【たかみむすびのかみ】
むすび・・天地万物を産(む)し成す霊妙な神霊、万物の生成、生育、発展
むす・・・(うむす)の約、生す、産す、発生する、生まれる、蒸す、苔むす、むすこ、むすめ、契りをむすぶ等
人間初めて、全て生物は蒸(むす)されているから体温が有り、生命がやどり維持されていると言われます。この様に万物の誕生、育成、発展を司る神様として、古代より崇拝されている高天彦大神です。
左から、三十八社、菅原神社、春日神社、本殿
掲示
高天彦神社
「延喜式」に 大和 葛上郡十七坐の一で高天彦(たかまひこ)神社とある
名神大社に列せられ 月次 相嘗 新嘗の祭がある
祭神は高見産霊尊(たかみむすびのみこと)別名高天彦神
現在は 市杵島姫 菅原道眞を併祀している
神体は 社殿の後方にそびえる白雲峯(六九四メートル)別名を高天山という
高見産霊尊は「天孫降臨」に深くかかわった高天原の神であるために この地に いまも高天原伝説が伝承される
歴史学者のあいだでも 日本民族の高天原の思想は この地に育まれた という説がある
神域の前方に 老杉の参道 その先に鶯宿梅 その奥の杉や桧の林の中に 蜘蛛塚がある
現在の社殿は 三間社の神明造
明治10年の建築
「白雲峯(六九四メートル)別名を高天山という」と書かれているが、『日本の神々5』に以下の記述があり、高天山は金剛山の広い範囲を指す可能性もある。
旧宇智郡(現五条市)に式内社「高天山佐太雄神社」と「高天岸野神社」があり、いずれも金剛山中腹の神社に比定され、また金剛山を古くは高天山とも称していたことから推して、高天彦はこの山の山霊そのものであった可能性がある。
「三間社の神明造」と書かれているのは本殿のことだと思うが、私には流造に見えた。
左:八幡神社、右奥:稲荷神社、右中:市杵島神社、右手前:御霊神社
正面から見る
左:稲荷神社、中央:市杵島神社、右:御霊神社
御霊神社は井上内親王をお祀りする。
「日本の神々5」には以下の様に書かれている。
『新抄格勅符抄』に「高天彦神四戸大和国宝亀十年(779)充」とあり、『日本後紀』の大同元年(806)四月条には「大和国葛上郡正四位上高天彦神預四時幣帛。縁二吉野大后願一也」と記されている。井上内親王(吉野大后)は、その子他部王【おさべ】とともに宝亀六年(775)四月不遇の死をとげており、この二つの記述はこの不遇の死と関連するものと思われるが、当社との関係は明らかではない。
参道の並木と、神社背後の甘南備山「白雲嶽」
金剛山のピークは、この峯の背後になる。
7時前に参道入り口にある駐車場に到着した。すると、登山スタイルの男性達が次々と駐車場に戻ってくる。神社の前で一礼して、駐車場に停めた各人の車の側で登山靴を履き替えられている。お話を聞くと皆さん、金剛山に登ってきたという。(繰り返しますが、私がこの場所に着いたのは7時前です。)「私の場合、ここから金剛山の頂上まで2時間位かかる。彼は健脚で1時間位で登る。」しばらくお話して分かったのだが、彼らは毎日金剛山に登る、金剛登山フリークの人達だったのだ。そんな人種が世の中に存在するなんて、私には想像すら出来なかった。京都愛宕山へ清滝から週参りする方がいるのを知り、大いに驚いていたのだが、毎日登山とは・・・・。そのフリークぶりを示す一つの例として、1時間で登るという人の車のナンバーが、何と金剛山の○○と同じ○○○○なのでありました。(そんな人達のお一人から、チョコレートを頂きました。)
home 作成:2013.05.12