平群石床神社【へぐりいわとこ】(奈良県生駒郡平群町)
平群石床神社旧社地
『延喜式』神名帳に「大社」と記載の古社である。
明治6年に村社となり、明治44年には神饌幣帛料供進の指定村社となった。
大正13年に、旧地から約300m離れた境外摂社所在の現在地に移された。
初めて参拝したのは8年前。8年間で樹木が成長し、陰石(女陰)たらしめている部分が正面からは見えなくなった。
鳥居も新しくなった。旧社地との事だが、巨石に対する信仰は続いているようだ。
境内掲示 石床神社旧社地 平群町越木塚 越木塚集落の南東部、伊文字川【いもじがわ】流域を見おろす位置にあるり、本殿や拝殿は当初からなく、鳥居と社務所があっただけで、崖面に露頭【ろとう】した高さ約6m、幅10数mの巨大な「陰石」【いんせき】を御神体としている。『延喜式』に記載のある式内社で、祭神は剣刃石床別命【けんじんいわとこわけのみこと】。貞観元年(859)には従五位上を授けられている。 地域での磐座【いわくら】(陰石)信仰が窺え、古い信仰形態を伝える貴重な神社である。 大正13年(1924)に集落内の素盞嗚【すさのお】神社[現:石床神社]に合祀【ごうし】されている。 この付近には花崗岩の巨石が多数露頭し、烏土塚【うどづか】古墳や西宮【にしのみや】古墳に運ばれており、古墳時代〜飛鳥時代の石材産地でもある。 |
↑ 磐座の上部へ回り込むことが出来る集落の道がある。その道を少し下ったところ。 ← さらに下ったところ。写真左下に鳥居が見える。 |
現社地
境内掲示 消渇・石床神社 平群町越木塚 消渇【しょうかち】神社は、本来は地域の産土神【うぶすながみ】である正勝【まさかつ】の神として祀られていた。 室町時代に、旅の僧信海【しんかい】が腰の病を治してもらってから下半身の病気に御利益があるとして村人に信仰されるようになる。 江戸時代には社名から女性の病気や性病に効果があるとして京都祇園【ぎおん】からの参拝者もあり、参道に茶店が出るほど賑わったという。 願掛けには境内階段下の屋形で土の団子を十二個つくりこれを供えて祈願し、願いが叶うとお礼に米の団子を十二個お供えする。 石床【いわどこ】神社は、大正十三年(1924)に旧社地より消渇神社境内奧の現在地に合祀された。 拝殿前に天保五年(1834)の狛犬が、奧に寛文七年(1667)の石灯篭が奉納されている。 瓦葺きの覆屋内に三つの社殿があり、中央が石床の神である。また左右の社殿には太玉命【ふとだまのみこと】と本来の祭神である素盞嗚命【すさのおのみこと】を祀っており、拝殿の奧には神篭石【かみごおりいし】がおかれている。 |
本殿 |
境内掲示 平群村越木塚青年団建設 石床神社由緒記 平群石床神社は醍醐天皇の御代紀元1587年延喜式神明帳に記され式内大社にして諸祭には畏くも朝廷より奉幣の御事あり御創立舒明天皇の三年即ち紀元1291の歳肇国創業の御功神饒速日命を祀らせ給いしに創る高さ九米巾十八米餘の巨石を御神体とする古代の神社形式を保ちこの巖下より湧出する清水は萬病の薬になると「和名抄」載せられたり境内の消渇神社は分霊の祀る社なるべし(古代祭祀の巨石遺跡あり南三○○米) |
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拝殿後ろに三社並立の本殿がある。 中央に剣刃石床別命【けんじんいわとこわけのみこと】(『日本惣国風土記』等は饒速日命【にぎはやひのみこと】を祭神とする)、向かって右に太玉命【ふとだまのみこと】、左に素盞嗚命【すさのおのみこと】をお祀りする |
拝殿から、境内を振り返る。石垣の上に消渇神社の拝殿が見える。
消渇【しょうかち】神社・七社神社に至る参道の入り口
鳥居の右手には、手水鉢と、お供えの土団子を作る場所がある。
材料の粘土やヘラ、団子をのせる折敷【おしき】が常設されている。
↑ ← 消渇【しょうかち】神社拝殿 拝殿内に、土団子が供えられていた。 願掛けには土団子を12個お供えし、願いが叶うとお礼に米の団子を12個お供えする。『日本の神々4』に、「婦人の守護神として、陽石・陰石の土団子を供える信仰がある。」とあり、『神と自然の景観論』には「古くは陰陽の形を作ったとも言われる」とあった。 |
消渇【しょうかち】神社本殿
消渇【しょうかち】神社の敷地から七社神社へ至る石段
七社神社
土塀を廻らした広い空間に春日造りの小さな社殿がある。社殿に「那羅志大神」と書かれた板が立て掛けてあった。
巨石が縦に割れた形が女陰を連想させ、万物生成、農作物豊饒の神としての原始的な信仰があり、女陰型磐座を基盤として、女性の裾の病に効験があるというショウカチ信仰が発生したと考えられる。
home 作成:2009.06.14