入鹿神社【いるか】(奈良県橿原市小綱町【しょうこちょう】)
御由緒には、「全国で唯一、蘇我入鹿公を御神体とする神社」とある。たしかに、珍しい神社としてずっと脳味噌の片隅に残っていたが、やっと参拝出来ました。
さらに御由緒には、当社名に関して、明治時代神武天皇をお祀りする橿原神宮造営にあたり、その近くに逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるよう政府から圧力があったと書かれている。しかし、地元の方は拒まれたという。御祭神の一柱素戔嗚尊も以前は牛頭天王としてお祀りされており、社名も牛頭天王社とも呼ばれていたそうだ。橿原市周辺は蘇我氏ゆかりの地で、「蘇我」・「曾我」といった地名も残っている。小綱町の隣曾我町には、蘇我馬子創建の宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖をお祀りしている。
境内入り口
拝殿、左奥に摂末社
本殿
御祭神
素戔嗚尊【すさのおのみこと】蘇我入鹿の両柱を合祀している。
御神体
素戔嗚尊:木造立像(丈一尺・作者不詳)
入鹿大臣:木造座像(丈一尺・作者不詳)
掲示
橿原市指定文化財
建造物 入鹿神社本殿一棟
当社廃普賢寺【はいふけんじ】の東南部の一段高い所に西に向かって建ち、もとは同寺の鎮守社【ちんじゅのやしろ】であったと伝えられる。祭神は、素戔嗚尊【すさのおのみこと】と蘇我入鹿【そがのいるか】の両柱を合祀している。
本殿は一間社春日造で、身舎は丸柱、柱上に三斗を組み背面を除く頭貫桁間【かしらぬきけたま】に中世風の面影を残す蟇股【かえるまた】を置く。屋根は桧皮葺【ひわだぶき】で、棟は箱棟に千木【ちぎ】、かつお木を取付けた江戸初期の建物である。
尚、近年老朽化が進み、昭和六十一年度に解体修理が行われた。
橿原市教育委員会
摂末社
摂末社 |
金毘羅大権現 |
掲示
古の時代から小綱町【しょうこちょう】は我が国最初の国道といえる横大路と、太子道(筋違道)の交わる交通の要衝として多くの人々の往来があり、それらの道は飛鳥の都へ向かう外国の使節や、遣隋使や遣唐使が往来し、大陸から文化が伝わった道でもありました。
横大路はその後長谷寺詣での初瀬街道となり、又江戸時代には伊勢参りが盛んとなり伊勢街道として栄え、街道沿いでは食事や湯茶の接待などの「施行」を行ったとされています。
昔から街道沿いには多くの地蔵さんが祀られていました。
その後、近代の道路整備等でそれらの地蔵さん等は移転を余儀なくされ、他の場所で一箇所にまとめられていたのをこの度この場所に移転しました。地蔵さん以外にも金比羅さん(写真右上)等も含めて十二体の神仏を私達はこれからも鄭重にお祀りします。
平成二十四年七月 小綱町文化財保存会
だんじりの掲示
『多武峰縁起絵巻』(談山神社所蔵)部分
神社の伝承では、入鹿神社のあたりで幼少期を過ごした家があったとも、入鹿の母が身を寄せた家があったとも伝わる。
小綱町では、昔鶏を飼わなかったという。入鹿襲撃の合図が鶏の声だったからだそうだ。小綱で生まれたものが多武峰にお参りすると、腹痛がおこるという。多武峰には中臣鎌足が祀られているからだ。明日香村小原と小綱町は縁組しないという。小原は、鎌足の母の出生地だからだ。
神として祀られ、色々な伝説が現代まで伝わっているのは、蘇我入鹿公が生前から地元の方々に慕われていたあかしだと思う。
写真:2020.11撮影
home 作成:2021.02.23