賣太神社【めた】(奈良県大和郡山市稗田町)

参道入り口の鳥居

入り口付近
鳥居をくぐり左に曲がると、正面に拝殿が見える。




拝殿

拝殿




拝殿より本殿を望む

拝殿より本殿を望む




本殿

本殿

由緒より

賣太神社御由緒

 主斉神 稗田阿礼命(ひえだのあれのみこと)
 副斉神 天宇受賣命(あめのうずめのみこと)
 副斉神 猿田彦神(さるたひこのかみ)

主斉神稗田阿礼命
 古代、大和平野は南北に通じる古道の上つ道・中つ道・下つ道が縦走する。その下つ道は一名、太子道と呼ばれ、「聖徳太子暦」に依ると、聖徳太子が造成されたということになっている。
 この道の東側に稗田町があり、天武天皇の時代に起った壬申の乱のおり大伴吹負【ふけい】軍が稗田を通ったことが「日本書紀」に記されている。
 稗田阿礼命は、「古事記」の序に「時に舎人【とねり】あり、姓は稗田、名は阿礼、年は廿八、人となり聡明にして、目に度【わた】ればロに誦【よ】み、耳に佛【ふ】るれば心に勒【しる】しき。」とみえる。
 時の天皇、天武天皇がご精選になった歴代の神さまのご事跡、天皇のご事跡、皇位鞋承、神代以来の各民族の歴史・伝説・歌謡等を多くの学者や名門出身の役人の中から特に記憶力抜群の阿礼さまに、誦語【みことのり】で誦習【よみなら】わしお授けになった。この誦習った事柄を三十有年後の元明天皇が、太安万侶命に、「稗田阿礼の誦習った事柄を記録せよ。」とお命じになった。このようにして和銅五年(712年)正月二十八日に天皇にご撰上申し上げた書物が古事記である。
 稗田阿礼命の家系について述べると、日本書紀神代の巻に、天皇より女子である天宇受賣命に男神同様「猿女君」の姓を賜り、子孫は男女共に猿女君と称した。「弘仁私記」では、稗田阿礼命は天宇受賣命の后【のち】なりとある。「西宮記」裏書には、猿女君の一族に稗【ひえ】田氏のあった事を記してある。「斉部氏家牒」(大倭神社註進状)に「稗田阿礼語る所の古事記是也 阿礼は宇治土公庶流。天宇受賣命の末葉なり」。とある。
 これらの文献の通り、天宇受賣命の子孫が「猿女君稗田氏」として稗田に定住し、奈良時代には稗田阿礼命が宮中に仕えていた。


賣太神社の社名の起こりには、次のような由来がある。稗田の猿女の君は天皇より多くの養田を賜り、その田を猿女田、持ち主を猿女田主と呼んだ。のち、猿の字を略して、女田主、即ち賣太主と呼ぶようになり、その祖神を祀る社を賣太神社と称するようになったという。



主斉神稗田阿礼が描かれた絵図

伝冷泉為恭画「舎人親王画像」
中央上:舎人親王
左下:稗田阿礼  右下:太安万侶

当社の主斉である神稗田阿礼命は、女性という説もある。この絵に描かれた稗田阿礼も、私には女性っぽく見える。




副斉神が描かれた絵図

富岡鉄斎画「二神会舞図」
当社の副斉神である猿田彦神【さるたひこのかみ】と天宇受賣命【あめのうずめのみこと】


Kさん・私・案内役のOさんの3名で、大和郡山を歩いた。古い町並みや緑地公園等を見て回り、最後に稗田環濠集落・番条環濠集落を巡ったが、当社は稗田環濠の南端に位置する。Oさんは、きっちりと当社を計画に入れて下さった。(感謝) こちらの環濠は、幅が広く水量が豊だ。絵の仲間である3名は、約30分の予定で稗田環濠集落をスケッチしたのだった。


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home   作成:2016.09.03