鏡神社別社赤穂神社【あこう】(奈良市高畑町)

赤穂神社の標柱

赤穂神社の標柱と右(西)を向いた社殿

『延喜式』に、添上郡三七座中に赤穂神社がある。『大和志料』をはじめ江戸時代の地誌類には、赤穂神社は在南都高畠神坊町としている。赤穂神社は神保社とも呼ばれていた。もとこのあたりは、高畠神ノ坊町と呼ばれていたことがある。当時は社地がもっと広く神社は南向きに祀られていた。しかし、『大和志料』には、この神社は春日大社の摂社紀伊社に合祀となっている。現在、鏡神社別社として、鏡神社宮司が当社の宮司を兼任してお祀りされている。(『奈良市史 社寺編』)




赤穂神社の拝殿

拝殿

掲示
式内赤穂神社 御祭神
天児屋根命 一座
天満宮   一座
弁財天社  相殿

自在辻子天満宮御祭神:菅原道真公【すがわらみちざねこう】
弁財天社御祭神:市杵島比売神【いちきしまひめのかみ】
往古は別に祀られていた天満宮と弁財天社を合祀して、相殿となった。(『奈良市史 社寺編』)




赤穂神社の社殿

左の社の、柱左に「弁財天社」、柱右に「自在辻子天満宮」の文字
右の社の、柱右に「赤穂神社」の文字



掲示
  式内 赤穂神社の由来
古来、高畑町の春日社神官邸町の西端の地に鎮座して久しく里人の尊崇を受け給ふ。
平安時代「延喜式」所載の古社にしてかの二月堂お水取りに読み上ぐる神名帳にも赤穂明神とあり、連綿今日に至るまで 読誦せらるる古例なり。
上古、天武天皇紀六年に十市皇女を同十年に氷上【ひかみ】ノ夫人を「赤穂ニ葬ル」とあるは蓋しこの地辺ならむ。もと社地広大にして数百余坪 桜樹多く 幕末頃まで 桜田の地名ありき。近世の記録には天児屋根命を祀るとせるも加ふるに、「高貴の姫君を葬る」との口碑伝承あるは、いと久しく女人守護の霊験久しかりし証なり。
明治御一新の後、この里荒廃し二百戸近き社家・祢宜の大半は離散して築地塀のみ虚しく残り、秋艸道人、堀辰雄らの文人哀惜の詩文あり。されど、より深く嘆きまさりし里人有志、滅びゆく天満宮祉・弁財天を合祀して赤穂社の左に配し、今に二社並存す。昭和五年以来 この地の産土神鏡神社の別社となり、地元有志再興の至誠を注ぎつつ今日に至る。神徳の長久を仰ぎ、先人の篤信を継承して復興の機運を待望する所以なり。
  昭和五十二年九月十八日 例祭の佳日
    赤穂神社 地元奉賛有志
    鏡 神社・赤穂神社 宮司


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写真:2023.03.27撮影
home   更新:− 作成:2023.04.15