穴栗神社【あなぐり】(奈良市横井町)
2019年万葉の会で、京終駅から帯解駅まで旧道を選んで歩いた折、当社に立ち寄った。私は初めての訪問だった。第一印象は、「広葉樹の杜が凄い。」だった。それ以上に驚いたのが本殿だ。多神社(多坐弥志理都比古神社)を思い出させる立派な本殿だ。
狭い道に面した鳥居
額には「穴栗神社」の文字
参道
東門
拝殿
四社連棟春日本殿
この写真のみ2019年10月に撮影。
(この日は、雨が降ったりやんだりの行程だった。それは悪い事ばかりでは無い。結果、落ち着いた雰囲気の写真を撮ることが出来た。)
本殿
掲示 穴栗神社(伊久里の杜【いくりのもり】) 奈良市横井一丁目六七七番地 御祭神 伊栗【いぐり】社 (太玉命【ふとだまのみこと】) 穴栗【あなぐり】社 (高御産霊尊【たかみむすびのみこと】) 青榊【あおさかき】社 (青和弊【あおにぎて】) 辛榊【からさかき】社 (白和弊【しらにぎて】) この神社の鎮座する地は、古く「日本書紀」景行天皇(第十二代)の条に「春日穴咋邑」と出ているところです。神社の名を穴吹・穴次と書くものもありますが、春日大社の記録によると、平安時代に、この地から穴栗・井栗の神が春日大社に勧請(分霊)されたと書かれています。境内にある元禄四(1691)年建立の社号標石にも「穴栗四社大明神」とあり、穴栗は古くからの呼び名です。 現在、穴栗神社は、横井東町の氏子がお祀【まつ】りしています。 「万葉集」に 妹【いも】が家に 伊久里【いくり】の杜【もり】の 藤の花 今来【こ】む春も 常【つね】かくし見む −高安 王【たかやす おう】−(巻一七−三九五二) と詠まれている「伊久里の杜」は、井栗の神を祀っていた、この地です。 歌は、天平十八(746)年八月七日に、越中守【のかみ】大伴家持【やかもち】の館【やかた】での宴【うたげ】の場で、玄勝というお坊さんが伝誦【しょう】したものです。作者の高安 王(大原高安)は、天武天皇の皇子長【なが】親王の孫にあたり、奈良の都の人です。「恋しい人の家に通【かよ】っていく井久里の杜に咲く藤の花よ、まためぐってくる春にも、いつもこのように眺めていたいものだ」と詠んでいる作者は、藤の花の咲くころ、このあたりを通って、恋しい人のもとを訪ねたのでしょう。 境内の万葉歌碑は、平成十年五月に、平城【なら】萬葉教室と横井東町自治会の協力によって建立されました。 「伊久里の杜」万葉歌碑建立実行委員会 |
『奈良市史 社寺編』(昭和六十年三月三十日発行)の索引には「穴吹神社(古市町)」と書かれていた。明治24年の由緒には「延喜式所載の神社にして、書紀景行天皇の条に春日穴咋邑とあるを、神名帳考証に穴栗社・穴栗明神といえり」と書かれいたそうだ。古くは「穴栗社」と呼ばれていて、明治4年に「穴次社」としたそうだ。穴栗・穴次・穴咋・穴吹などと記されたり呼ばれたりしたが、いずれも同一社の事という。当社は、古くは大字横井村にあったのを、寛文年中(1661-1673)に古市村の領主により現在地に移されたそうだが、横井町の氏神になっているという。
Googleマップで確認したが穴栗神社の所在地は掲示通り横井町1丁目になっている。昭和六十年以降に地名変更があった?
狛犬
良い狛犬だ。「おこしやす。ようお参りに来てくれはりましたなぁ。」と言っているように思う。
境内社
境内社
『奈良市史 社寺編』によると、境内社は厳島神社(祭神:市杵島姫命)、稲荷神社(祭神:保食神)、御霊神社(神武天皇)の三社があるという。一社見落としたようだ。
参道にある万葉歌碑(上記「掲示」参照)
写真:2022.10撮影
home 更新:− 作成:2022.10.05