御霊神社【ごりょう】(奈良市薬師堂町)

『奈良市史社寺編』には、延暦十九年(800年)に宇智郡霊安寺から神を遷したとある。元興寺南大門前にあって、御霊会が取り行われていたという。宝徳三年(1451年)に元興寺の火災があり、現在の地に遷宮されたそうだ。疫病が流行した際には、中街道に井上内親王、上街道に早良親王、下街道には他戸親王の神輿を据えて流入を防いだこともあって、いまも七十か町五千余軒の広い氏子層をもつ。

境内入り口

境内入り口




境内入り口

境内入り口

掲示
御霊【ごりょう】神社
 御霊神社は、社伝によると井上皇后、他戸【おさべ】親王ら八神を、お祭りしています。
 このあたりは、奈良時代には元興寺の寺域であり、御霊神社付近には南大門があったと推定されています。
 古くはその門前に御霊社の社地があり、御霊をなぐさめる御霊会【ごりょうえ】が催されたといい、十五世紀には猿楽【さるがく】などの芸能も行われました。
 今も奈良町を中心に、広範な信仰を集めています。
    奈良市教育委員会




御霊神社狛犬吽形 御霊神社狛犬阿形

この狛犬さんを見て思ったのは「歯を磨いてほしいのかなぁ。」だった。




八神殿

八神殿より本殿を拝す




御霊神社本殿

本殿

掲示
御霊神社【ごりょうじんじゃ】
 奈良市薬師堂町二十四番地 鎮座

御祭神
 井上皇后【いがみこうごう】 他戸親王【おさべしんのう】 事代主命【ことしろぬしのみこと】 早良親王【さわらしんのう】 藤原広嗣【ふじわらのひろつぐ】
 藤原大夫人【ふじわらだいふじん】 伊予親王【いよしんのう】 橘逸勢【たちばなのはやなり】 文屋宮田麿【ぶんやのみやたまろ】

御由緒
 当神社は延暦十九年(八00年)人皇第五十代 桓武天皇の勅命により御創祀された社であります。
 宝亀六年(七七五年)聖武天皇の皇女で光仁天皇の皇后井上親王は政権争いに巻き込まれ、無実の罪により、御子他戸親王とともに宇智郡(五條市)に幽閉されたのち薨去されました。その後、都や桓武天皇東宮に怪しき事が度々あり、疫病が流行したことから諸国の国分寺に金剛般若経の読経をさせ、墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈られて霊を篤く慰められた。
 非運のうちに亡くなった人の霊魂に対し畏怖の念を抱き、その霊を祀り、その威力によって災厄をのがれようとする御霊信仰が生まれました。当時、奈良の町に通じる三つの街道があり、上つ道に早良親王、中つ道に井上皇后、下つ道に他戸親王の御霊を祀り、疫病を封じ平穏を祈る御霊会が営まれ、町の守護神として五條本宮より遷祀されたのが当社のはじめであります。
 宝徳三年(一四五一年)土一揆により元興寺金堂以下主要堂宇が火災で焼失し、このとき井上郷(奈良市井上町)の井上御霊社も焼失しました。その後、現在の地に遷座されたと伝えられています。
 御本殿に井上皇后、他戸親王の神霊二座、東側社殿に早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人の神霊三座、西側社殿に伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿の神霊三座をお祀りし、あわせて八所御霊大神と申し上げます。
 奈良町の中心に位置し、県下唯一の広範囲である氏子地域七十余町を守護する氏神でもあります。

御神徳
 すべての禍事・災難を取り除き、国家守護、家業繁栄、福徳円満、平和の神として幅広い信仰をあつめております。



御霊神社西神殿

西神殿
御祭神:伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿




御霊神社東神殿

東神殿
御祭神:早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人




若宮社

若宮社
御祭神:菅原道真公
水子神社

水子神社
御祭神:蛭子【ひるこ】大神

若宮社:北室町にあったものを明治十年に合祀された。




祓戸社・出世稲荷神社

左:祓戸社
御祭神:祓戸四柱大神、市杵島比賣神
右:出世稲荷神社
御祭神:稲荷五柱大神

祓戸四柱大神:瀬織津比盗_【せおりつひめのかみ】、速開都比盗_【はやあきつひめのかみ】、気吹戸主神【いぶきどぬしのかみ】、速佐須良比盗_【はやさすらひめのかみ】
稲荷五柱大神:倉稲魂大神【うかのみたまのおおかみ】、猿田彦命【さるたひこのみこと】、大巳貴命【おおなむちのみこと】、天鈿女命【あめのうずめのみこと】、保食命【うけもちのみこと】



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写真:2012.09撮影
home   作成:2021.10.17