鏡神社摂社 比賣神社【ひめかみしゃ】(奈良市高畑町)
当社が鎮座するこの場所は、元々高さ1m、9坪ほどの比売塚とよばれていたところで国有地だったそうだ。その比売塚には十市皇女が埋葬されているという言い伝えがあったという。
御近所の方が私費を投じて、国有地を払下げ社殿を建てられた。昭和56年に完成し、皇女の霊魂をお迎えする御鎮座祭が行われたという。鎮座地は新薬師寺の名義に、比賣神社は鏡神社の摂社となった。(朝日新聞「大和の鎮魂歌」2006年11月10日発刊より)
比賣神社全景
(背後は新薬師寺)
社殿 |
掲示 鏡神社摂社 比賣神神社【ひめかみしゃ】(旧比賣塚【ひめつか】 御祭神 十市皇女【とうちひめみこ】 脇坐 市寸嶋比賣【いちきしまひめ 御鎮座 昭和五十六年五月九日 例 祭 五月十日 当社の「御由緒」は鏡神社の社務所にございます。 |
十市皇女は、大海人皇子【おおあまのみこ】(のちの天武天皇)と額田王【ぬかたのおおきみ】の娘だ。のちに、大友皇子(天智天皇の子)の正妃となる。父大海人皇子と夫大友皇子が戦った壬申の乱で、敗れた大友皇子が自害する。十市皇女は父のもとへ身を寄せるが、天武天皇七年(678年)に急死する。病死説、自殺説、他殺説がある。
掲示 神像石【かむかたいし】由来 弘文天皇の御曽孫淡海三船【おうみみふね】公は本邦最初の漢詩集「懐風藻【かいふうそう】」を編集せられ四面楚歌の中にありながら曽祖父なる弘文天皇(大友皇太子)いませし日を顕彰せられ、孝養を讃へ四代にわたる御姿石を勧請し永く斎き奉らんと願うものなり。 昭和六十三年 第八回例祭の日 鏡神社宮司 梅木春和 比賣神講長 寺島富郷 淡海三船(おうみのみふね 721~785 )公 奈良時代 の学者 大友皇子 の曽孫 大学頭(だいがくのかみ)・文章博士(もんじょうはくし)を務め、神武天皇から光仁天皇に至る漢風諡号を定めた 「懐風藻(かいふうそう)」の選者と言われる 個々の神像石【かむかたいし】右手後方に、お名前が書かれている。 奥から「大友皇子、十市皇女」、「葛野王、王妃」、「池辺王、王妃」、「淡海三船公、公妃」 |
絵馬の下、中央にあるのは万葉歌碑 「河上の ゆついはむらに 草むさず つねにもがもな 常【とこ】をとめにて」 万葉集巻一に 十市皇女【とをちのひめみこ】、伊勢の神宮に参【ま】ゐ赴【おもぶ】く時に、 波多【はた】の横山の巌を見て、吹芡刀自【ふふきのとじ】の作れる歌 とある。伊勢におもむく十市皇女への寿歌【ほぎうた】。 |
写真:2023.03.27撮影
home 更新:- 作成:2023.07.20