手向山八幡宮【たむけやまはちまんぐう】(奈良市雑司町)

参道入り口の一の鳥居

一の鳥居
東大寺南大門をくぐり、鏡池に沿うように東大寺中門前を右に折れ、そのまま東に進むと一の鳥居がある。




楼門を南から見る

楼門
一の鳥居をくぐり参道の森を進むと、楼門正面に至る。




本殿

楼門をくぐると正面に本殿

境内掲示

手向山八幡宮【たむけやま】
この手向山八幡宮は、奈良時代聖武天皇が大仏の造営をされとき、これに協力のため七四九(天平感宝元)年に宇佐から八幡宮を迎え大仏殿の近く鏡池(八幡池)の東側に鎮座したのに始まる。そして以後東大寺を鎮守したのである。
 鎌倉時代の一二五0(建長二)年に北条時頼によって現在地に遷座した。

 祭神は、応神天皇、姫大神、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇

 祭礼は、転害会【てがいえ】と呼ばれ十月五日に行われる。これは宇佐から遷宮のとき、東大寺転害門から入られたことに起因すると伝えられ、転害門をお旅所として神輿【みこし】が出る。
この外、お田植祭がある。節分の日に行われるが古い能楽の形式を残しているといわれる。

 手向山八幡宮には(県指定文化財 江戸時代)境内社 住吉社本殿(重要文化財 鎌倉時代) 宝庫(重要文化財 奈良時代 校倉) 唐鞍(国宝 鎌倉時代) 狛犬(市指定文化財 鎌倉時代)など十八件の国・県・市の指定文化財がある。

日本の神々4では、祭神は品陀別命【ほんだわけのみこと】(=応神天皇)、足仲彦命【たらしなかつひこ】(=仲哀天皇)、息長帯姫命【おきながたらしひめのみこと】(=神功皇后)、比売大神【ひめおおかみ】となっている。




本殿

本殿を北側から見る




境内

境内(本殿前)





境内

境内(本殿南側)
樹木の豊富な当社の境内が、私は好きだ。




摂末社

沢山の摂末社が鎮座する




菅公腰掛石

菅公腰掛石

石碑

管公腰掛石
   すがはらの朝臣
このたびは ぬさも とりあへず手向山
もみぢのにしき 神のまにまに




摂末社

摂末社




摂末社

摂末社




境内

境内



天平十五年(743年)聖武天皇は、紫香楽宮【しがらきのみや】にて「廬遮那仏の造営の詔」を発するが、紫香楽宮甲賀寺での大仏造立は頓挫する。莫大な経費、資材、人夫の調達が工事を妨げた。
天平十九年(747年)、朝廷は使を宇佐に遣わし、大仏造立成就を八幡神に祈願したところ、
「神吾【われ】天神(高天原【たかまのはら】に坐【ま】す神々、高天原より地上に降臨した神々およびその裔の神々)地祇【ちぎ】(地上に坐す神々)を率しいざなひて、成し奉つて事立【ことだ】て有らず。銅【あかがね】の湯を水と成すがごとくにならん。我が身を草木に交へて、障【さ】へる事無く成さん」
との全面協力の託宣を発した。
天平二十年(748年)八度の改鋳を経て廬遮那仏はその全容を現す。が、大仏の身に施す黄金が不足していたのだ。聖武天皇は、もはや我が国に金は産しないと思い、唐に使者を派遣して金を得ようと考えた。その使者は、唐に渡る前に宇佐の八幡宮に立ち寄り、往復の安全を祈っていると、
「求むる所の黄金は、将【まさ】に此【こ】の土【つち】より出づべし。使を大唐に遣す勿【なか】れ」
との託宣があった。はたせるかな、天平二十一年(749年)、陸奥国【むつのくに】から黄金が九百両献上された。
黄金が献上されたのは二月二十二日で、同年四月十四日、天平感宝元年と改元された。さらに同年七月二日、聖武天皇が退き、孝謙天皇が即位、天平勝宝元年と再び改元される。その天平勝宝元年の十一月十九日、八幡神が都に向かうとの託宣を発する。十二月十八日に入京した八幡神は、宮城の南、梨原宮の新殿に鎮まる。これが手向山八幡宮の起源である。
宇佐から都までの移動経路では、諸国に対して百人以上の警護の兵を徴発し、また殺生を禁じ、道路を清めさせたという。



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home   更新:− 作成:2012.11.26