宅春日神社【やけかすが】(奈良市白毫寺町)

何度か通ったことのある志賀直哉旧邸に向かう道を今回は使わず、そのまま80号線を歩いて白毫寺に向かったら、偶然当社に出会いました。この地は、天児屋根命がお休みになられた処との言い伝えがあるという。名張には、春日四神の一柱である武甕槌命がお休みになったと伝わる神社が複数あり、よく似た伝承のあることに強く興味を引かれました。
千二百年前の昔、山の辺の道沿いにあった当地は大宅郷【おおやけごう】と称し、古代豪族大宅氏が北大和を領国支配していた要衝の地であったようだ。(『奈良市史』による)

参道入り口

参道入り口
標柱の右手、垣の石柱には「南都白毫寺」の文字




割拝殿・拝殿

割拝殿、その奥に拝殿




拝殿・本殿・境内社

右から、拝殿、その奥に本殿(本殿の玉垣しか見えていないが)、左は山の神社
祭の日に拝殿で巫女さんが舞っている写真をネットで見た。『奈良市史』では「拝殿」とあるが、舞殿でもある様だ。




本殿

春日造の本殿
祭神:天児屋根命【あめのこやねのみこと】、比賣神【ひめがみ】

掲示
宅春日神社の由来記
一、御祭神
   本社 天児屋根命
      比 賣 神
   末社 大山祇命(山の神)
二、由緒
 遠く奈良朝の昔、河内の枚岡から春日の神天児屋根命が御蓋山にお遷りになるとき、高円山下のこの地でしばらくお休みになったとの信仰伝承を、宅神社春日社では伝え継いでおります。
 第一回ご造営明和四年(1767年)以来約二四〇年間由緒深いこの地に里人は神社を建て、天児屋根命・比賣神を祀り産土神と仰ぎました。
 山青く水清く平和な田園に囲まれて里人は久しくこの氏神さまを仰ぎ春日社禰宜が代々祭典に奉仕し氏子達が二十年ごとに造営を重ねて昔の伝統を守り継いでまいりました。
 近くは、昭和六十一年の御造営には、先人達の篤い信仰により春日若宮本殿の半分の大きさに本殿を新造し、末社山の神を独立して祀り、神饌所・玉垣などを整備するなど、氏子の総力を挙げて旧観を一新し祭礼もようやく盛儀となってまいりました。
 ところが、永年の歳月と風雪のため社務所の朽損は特に激しく床や屋根・建具まで修理不可能箇所が多く、また境内の整備全般が急がれる状況になっております。朝夕この古里の我々をお守り下さる氏神様に対し、嘉例に依って伝統をまもりつつ改新を重ね、荘厳さを更に添えてゆくことは、私共氏子一同の後世子々孫々に伝えてゆくべき責務と存じております。そして今回、第十三回の御造営を完成し現在の姿に成ったのであります。

平成十八年十月吉日
 宅春日神社御造営委員

   (以下略)

上記「掲示」には、「第一回ご造営明和四年(1767年)以来約二四〇年間由緒深いこの地に里人は神社を建て、・・・」とあるが、『奈良市史』には「神社の由緒書によると、奈良時代の末ごろ、称徳天皇の神護景雲二年(768)春日大社が創祀された直後、はじめて末社として当神社が創建されたと伝えられている。」とある。枚岡から迎えられた御神霊を、浮雲の峰に鎮まるまで当地に仮神殿を造っておまつりしていたそうだ。




山の神社

「山の神社」(【やまのじんじゃ】ではなく 【やまのかみしゃ】)(祭神:大山祇命)(Wikipediaによる)
『奈良市史』によると、祓戸社・松神社があるようだが、見落としていたようだ。




白毫寺からの展望。当社も見える

白毫寺の境内から見た風景
写真中央下に当社の赤い鳥居が望まれる。さらに奥には垂仁天皇陵、唐招提寺も見える。背後は生駒山。



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写真:2021.11撮影
home   更新:− 作成:2021.12.31