瑜伽神社【ゆうが】(奈良市高畑町)
参道入り口
二の鳥居の右に百度石 |
石段の上に拝殿が見える |
拝殿が写っている写真は右の一枚だけだった。本殿の写真も無い。撮れなかったのか、撮るのを忘れたのか。8年前の参拝で記憶も無い。
『奈良市史 社寺編』によると幣殿もあるとのこと。
主祭神:宇迦御魂大神
掲示
瑜伽神社略記
御祭神 宇迦之御魂【うがのみたま】大神
御事歴 別名を豊受大神と申し伊勢の外宮に鎮り坐す大神と御同神であらせられます。即ち一粒の種から万倍の豊穣をもたらすように小を大に導き無から有を生んで下さる広大無辺の御神徳をおもちの大神で、それ故縁結び、子孫繁栄商売繁昌等福徳を招来して人間生活の一切を幸せにして下さっています
沿革 上古飛鳥神奈備に飛鳥京の鎮守として斎き奉っていたのを、平城奠都と共に此地に遷し祀って現在に及んでをります。もと元興寺の鬼門除の鎮守として崇められ後興福寺の大乗院がこの山麓に建つに及んで更にその守護神として藤原氏等の厚い崇敬がありました。
万葉故地 今謂う瑜伽山が古の飛鳥山て大和高原の一部が平地に突出した山觜の先端であるため奈良の都を見霽かすにも恰好の台地であったことでしょうし、又南方遥かにふる里の飛鳥古京を今も尚望めるのであります。大伴坂上郎女【おおとものさかのうえのいらつめ】が万葉集巻六に歌一首をとどめています。天平五年(733)
ふる里の飛鳥はあれど青丹よし平城の明日香を見らくしよしも
本殿の背後一帯はお山と呼ばれており、大杉大明神・白玉大明神・末広大明神・子金丸明神の石標をたてて祀られている。(『奈良市史 社寺編』)
左:歌碑と飛鳥神並社 右:飛鳥神並社 祭神:瑜伽大神の和魂
掲示 瑜伽山櫻楓歌碑の説明 歌 春は又花にとひこん瑜伽の山 けふのもみぢのかへさ惜しみて 註 (かへさ=帰さ)カエサ(名)「かへるさ」に同じ けふ=「今日」キョオ(名)古典事典 作者は梶野土佐守藤原良材で、この人は天保二年四月八日所司代より奈良奉行を仰せられ、同七年十二月八日京都奉行に転出するまでの六年間を奈良に勤務した人であります。その著書に「山城大和見聞随筆」三巻がある。良材は旗本の士で、なかなか気骨があって、殖産治水に力を尽し書画骨董に興味をもち見識高く学問思想上にも一見識を備えた幕末の一人材であった。 桜楓の名所 瑜伽山は、古来桜と紅葉の名所で奈良十六景に「瑜伽山の桜」と「瑜伽山の紅葉」同所に二景を選ばれています。又世には「小嵐山」と賞め称えて春は桜かざし花の宴に秋は紅葉の下に賀莚を聞き大宮人も武士、百姓町人も無礼講とばかり、この山に遊んで春秋を楽しんだことであろう。この歌は紅葉狩に来た作者が夕陽に映える紅葉の美観に感嘆し尚も去り難い思いで春には又ここへ来て花見をしたいものだとの意を詠んだ歌である。 碑の石は宮津石(台も共) 碑の文字は作者自筆の短冊から写真拡大したものです。 |
左手に飛鳥乃御井、中央は一言稲荷社、右手は大伴坂上郎女の歌碑
掲示 平城の飛鳥の万葉歌碑説明 原文 古郷之 飛鳥者雖有 青丹吉 平城之明日香乎 見樂思好裳 ふるさとの あすかはあれど あおによし ならのあすかを みらくしよしも 歌は万葉集巻六(992)に載っていて文字は類聚古集に依る。 作者は大伴坂郎女【おおとものさかのうえのいらつめ】で天平五年の作である。 万葉第三期から第四期におよんで量質ともに第一の女流歌人である。兄旅人の没後は佐保の大伴宗家にあって一族の後見としてその世話を女手の双肩になっていた彩色兼備の社交的地位の高い貴人であった。 奈良の飛鳥 この碑前に立って遥かに南を望むとき吉野郡山を背に大和三山が鼎立し飛鳥古京が翳濃く位置するものが見える。 大伴坂上郎女の魂はこの碑に凭って「ふる里の飛鳥はあれど」とこの奈良の飛鳥の見晴らしのよさに安らいでおられることであろう。 東に巻向山、三輪山、音羽山(万葉の倉梯山)多武峰そしてその奥に宇陀の山々が畳みかけるように重なり西に金剛山、葛城山、二上山、生駒山など万葉故地の山々が高く連なりそのとりめぐる青垣に擁されつつひろがる大和のまほらを一望に収め得るのである。 |
左:猿田彦社 祭神:猿田彦大神 右:久延彦社 祭神:久延彦大神
境内に紛れ込んでいた小鹿 |
参道を振り返る |
『奈良市史 社寺編』によると、
この辺りは、中世の瑜伽山城、あるいは西方院山城または鬼薗山城の跡とみられている。奈良ホテルの建つ西山を鬼薗山、そしてこの東の瑜伽山一帯を西方院山ということが普通である。いまも広い台地と濠の跡が歴然と残っている
とのこと。
(2021.11撮影)
写真:2021.11、2012.09撮影
home 更新:2022.01.28a 作成:2020.07.23