瀧蔵神社【たきくら】(奈良県桜井市瀧倉)
このたたづまいになぜか引かれる。
標高430mの山上に鎮座する国史見在社である。
古来、與喜天神とともに長谷寺の地主神とされ、川上瀧蔵明神あるいは瀧蔵権現とも呼ばれた。
滝蔵山一帯は奈良・春日神社の神領であったが、ここに庶民信仰が根強くあったことは、『今昔物語』巻十九にうかがうことが出来る。
(ある正月に七、八十人の人々が社の前の家で経を読み礼拝していたところ、人々の重みでその家の谷側の柱が折れ多くの人々が亡くなったが、信仰の厚い数人が助かったというお話。)
拝殿
本殿
六社神社 六社神社本殿
参道掲示
瀧藏神社
一、御祭神 伊弉冊尊【いざなみのみこと】(右殿)
伊弉諾尊【いざなぎのみこと】(中殿)
速玉命 【はやたまのみこと】(左殿)
神話唯一の夫婦神と御子を祭り、三社権現にて滝倉権現・滝倉明神・滝倉大菩薩と呼ばれる。後に毘沙門天・疱瘡神を合祀す。
一、神階 延喜二十年(921)従四位下
天慶【てんぎょう】三年(940)正二位
一、神殿 創建年代不詳・三間社流造・権現鳥居
(棟札)文禄三年(1594)修復以後十一回
一、文献
元長谷八郷の鎮守、地主神にて天慶九年(946)「長谷寺験記」に滝倉権現のお告げに依り大泊瀬【おおはつせ】山を「与喜地」【よきち】・「与喜山」【よきやま】として菅原道真公に護られたとの夢物語が書き残され、以来滝倉を「本地主神」、与喜山を「今地主神」と云われた。
長谷寺の奥の院と称し、古来より信仰深き神社にて長谷寺へお詣りしても当社へ参詣しなければ御利益は半減すると伝えられ「今昔物語」巻十九に平安時代当時の滝倉明神の社殿その他長谷寺との関係が具体的に書かれている。
鎌倉初期・保延四年(1138)に書かれた「長谷寺観音記」に美福院(七四代鳥羽天皇妃)長谷寺に参詣、夢のお告げにより滝倉権現の尼の力で姫を若君(七六代近衛天皇)と取り替えて貰ったという誕生の秘密が記されて有り、院はお礼に「滝倉の拝殿を営作す」と有る。
尚、「豊【ぶ】山玉石集」には、当山を滝倉大菩薩と云う三社有り「新宮権現」は女体柔和の姿。本地「薬師如来」・「滝倉権現」は老父の形・本地「虚空蔵菩薩」・「石蔵権現」は比丘の姿。本地「地蔵菩薩」と有る。
一、神社付近 古鐘 神宮寺 応永二十六年(1420)
石佛 弥勒菩薩(吉野朝時代) 神社下
地蔵菩薩(鎌倉時代) 西方寺
十三佛 (享保七年、室町)峠垣内
塚 黄金塚・明星塚
以上
六社神社 左 :大苫邊尊・泥土煮尊 中央:火々出見尊・煌根尊 右 :天彦火瓊々杵尊・面足尊 |
六社神社本殿 左 :葺不合尊・天忍穂耳尊 中央:大戸道尊・豊雲野尊 右 :沙土煮尊・國狭土尊 |
鎮守神社
天照皇大神をお祀りする
傍らの掲示 権現桜【ごんげんざくら】そのいわれ 当村の氏神さんは古来神宮寺として近郷の人々の信仰の中枢たる瀧蔵権現として栄え数多くの堂塔、伽藍が威容を誇っていた。長谷寺観音屋敷跡もひっそりと現在している。その権現さまはある時村の一老さんの夢枕に現れ「堂の傍に枝垂桜を植えて欲しい」とのお告げによりこの地に植えられたのが起源で(樹齢四百年)この名の伝えられる由縁であります。年々再々周【まわり】変われど年々再々見る人変わる事あれども花変る事なし。心古【いにしえ】に侍【はべ】りご覧あれ。 敬白 権現桜保存会 |
駐車場で車を降りて、神社に向かうときまず目に付くのが桜の古木である。
この時は、花びらが散って花が少なくなり葉が芽吹いていた。これもまた美しい。(花の多い権現桜はこちら)
home 作成:2011.02.06