談山神社【たんざん】(奈良県桜井市多武峰)
天智天皇八年(669)に中臣鎌足が死ぬと、次子の不比等は摂津の阿威【あい】山に葬った。このとき長子定慧【じょうえ】は遣唐使の一員として入唐していたが、天武朝に帰朝しして不比等と協議の結果、鎌足の遺骸を多武峰に改葬し、墓上に十三重塔を建て南に講堂を建て妙楽寺と号した。十三重塔は、唐の清涼山宝池院の塔婆を模したものである。文武天皇大宝元年(701)、塔の東に聖霊院を建て鎌足の木造を安置した。この妙楽寺内の聖霊院の進展したものが談山神社であると考えられる。多武峰が改葬の地として選ばれたのは、東を伊勢高山(天照大神)、西を金剛山(法喜菩薩)、南を金峯山(蔵王権現)、北を大神山(如来垂迹)に囲まれた霊地であったこと、地勢が唐の五台山に似ていたためだという。
140段の石段を登ると、楼門に至る
石段途中より
左から権殿、十三重塔、神廟拝所
権殿の背後には御破裂山がる。この山は後世、藤原鎌足の墓と信じられるようになり、国家に大変があるときは鳴動し、本殿安置の鎌足の神像が破裂したという。廟山鳴動・神像御破裂は醍醐天皇の昌泰元年(898)に初めて起こり、慶長十二年(1607)至るまでの間に35回あったという。
権殿と比叡神社(正面奥)
総社拝殿
右手は権殿(明治までは常行三昧堂と呼ばれた建物)
楼門
本殿(もと聖霊院)
左は楼門
本殿
拝殿
飯御供【いごく】 中にもち米が入っている |
和稲【にぎしね】 白米を食紅で着色して模様を作っている |
拝殿内に展示されていた百味の御食【ひゃくみのおんじき】
嘉吉祭のお供えである
展示されていたのはほんの一部。昔は実際に百味以上あったそうだ。
ナッツが沢山 |
毛御供 ウルチの白穂とモチ米の黒穂を使っている |
左から、末社稲荷神社、末社比叡神社、末社山神神社、末社杉山神社(右奥)、末社神明神社(右手前)
龍神社
掲示 龍ヶ谷の古代「岩くら」と「龍神社」 この瀧と岩くらは、古神道の信仰の姿を今に残した、霊地です。古代信仰では、神聖な石に、天上から神を迎え、祭祀を行いました。また、この瀧は、大和川の源流の一つであり、神聖な神の水が、神山より千古の時代を経て湧き続けています。岩上のやしろは、飛鳥時代に大陸から龍神信仰が入ってきて、わが国の水神(たかおかみの神)と習合し、龍神社と呼ばれるようになりました。 |
摂社 恋神社(東殿)
鏡女王、定慧和尚、藤原不比等をお祀りし縁結びの御利益があるとか。若宮とも云われる
建物は元の本殿を1668年に移築したもの
荒神社(こちらは無料)
紅葉の名所です。シーズン中は人と車であふれかえります。名張から行くなら、大宇陀宮奥経由で行くと渋滞に巻き込まれる確率が低いと思います。
写真:1989.12、2016.11撮影
home 更新:2022.0910b 作成:2010.12.12