呉津孫神社【くれつひこ】(奈良県高市郡明日香村栗原)

『日本書紀』雄略紀十二年(468年)四月に、身狭村主青【むさのすぐりあお】と桧隈民使博徳【ひのくまのたみのつかいはかとこ】とを、呉に遣わされたとある。
『日本書紀』雄略紀十四年(470年))一月に、身狭村主青らは呉国の使いと共に、手末才伎【たなくえのてひと】・漢織【あやはとり】・呉織【くれはとり】と衣縫【きぬぬい】の兄媛【えひめ】・弟媛【おとひめ】らを率いて帰国したとある。
同三月に、その呉人を桧隈野【ひのくまのの】に住まわせた。それで呉原と名付けたとある。
現在の栗原の地名は呉原から転化したもであろう。(『日本の神々4大和』)

呉津彦神社参道入り口

階段を登り切ったすぐ傍に椋の木、
右手奥に本殿がある
「呉津彦神社」と書かれた鳥居の額

「呉津神社」の文字




呉津彦神社の椋の木と手水舎

階段を登り切った右手にある椋【むく】の木と、手水舎




呉津彦神社本殿

本殿

祭 神:木花咲耶姫命【このはなさくやひめのみこと】
相殿神:天児屋根命【あめのこやねのみこと】

現在は木花咲耶姫を祭神とするが、理由は未詳。呉津孫神社という名称からすれば、祭神は呉津孫神【くれつひこのかみ】であったと考えられる。
近世には春日宮、春日大明神と称されており、そのことから相殿神として天児屋根命を祀っているのだろう。(『飛鳥の古社を歩く』 和田 萃著 河出書房新社)

呉国・呉人の読みは当然「くれのくに」・「くれひと」と読むのだろう。呉越同舟の呉は「ご」であり、調べてみたら春秋時代で紀元前473年に越に滅ぼされている。『飛鳥の古社を歩く』によると、倭国が、五世紀代に何度か南朝の宋に使者を派遣して調遣したという。(『宋書』倭国伝)「日本列島のはるか西方、日の暮れる彼方にある江南の地を、呉(暮れ)の国と称したのである。」と和田萃さんは書いている。




呉津彦神社の石造

青面金剛?? 庚申さん??
金毘羅さん

この様な置き方をされると、山ノ神?と想像してしまう。『大和の神社』さん(HP)によると金毘羅さんの様だ。この元写真を拡大して確認したら、「羅」の文字が見え「金」らしき文字?が見えた。次回お詣りするときに要チェック。



呉津彦神社のシャガの花

鳥居の傍にシャガの花が咲いていた。



神社の地図 ←地図  戻る

掲載写真:2017.04撮影
home   作成:2024.02.20