和爾下神社【わにした】(奈良県天理市檪本町【いちのもとちょう】)

延喜式神名帳には和爾下神社を「わにしも」と読ませている。和爾神社と称するのは、櫟本町和爾にある和爾坐赤坂比古神社より低地に鎮座するためという。 当社から西に2.5kmほど離れた横田町(郡山市)にも和爾下神社が鎮座する。享保二十一年の『大和志』には「和爾下神社二座、一座は櫟本村にあり、号して上治道【かみはるみち】天王という、近隣五村共に祭祀に預かる。一座は横田村にあり、号して下治道天王という。十一村共に祭祀に預かる。」とあるそうだ。(『日本の神々4 大和』 白水社) 「天王」というのは、牛頭天王を祀っていたことによると考えられる。

国道169号線沿いの鳥居






二つ目の鳥居の額には「和爾下神社」の文字


左:厳島神社  右:十二神社





稲荷神社


奥に見えるのは拝殿

社殿は、和爾下神社古墳(前方後円墳)の円墳部に鎮座しているそうだ。

掲示
和爾下神社古墳
 東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳である。全長一二0メートル、後円部直径七0メートル、高五メートル、前方部幅五0メートルである。前方部が短く、端部が両側へ撥型に開く特異な形態である。当古墳と、東大寺山古墳、赤土山古墳、及びシャープ総合開発センター内に所在する古墳などにより東大寺山古墳群を構成している。
 当古墳から東北約八00メートルには和爾の集落があるが、この周辺一帯は、古代大和政権の一翼をになった和爾氏の本拠地と推定され、東大寺山古墳群は和爾氏の奥津城と考えられる。
 内部主体や副葬品は明らかではないが、墳丘西側には石棺材があり、また昭和五十九年の防災工事に伴う調査において一基の埴輪円筒棺が検出された。これらの遺物により古墳の築造時期は、四世紀末から五世紀初頭と推定されている。

天理教育委員会




拝殿

掲示
和爾下神社(本殿重要文化財)
 神護景雲三年(769)東大寺領の櫟庄へ水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真直ぐに作らせたので、この森を治道の森といい、宮を治道社といった。和爾下神社古墳の上に祀られた神社で檪本の地方にいた豪族の氏神であったが、今は檪本鎮守の神社である。
 この治道社(春道社とも書く)の祭神は素戔嗚命の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。明治初年の延喜式内の和爾下神社がこれにあたると考証されて社名を和爾下神社と定めた。
 今の社殿は、三間社流れ造り、桧皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている。

   祭神は、素戔嗚命 大巳貴命 稲田媛命
   例祭は、七月十四日  祇園祭、十月十四日 氏神祭礼

天理市教育委員会




本殿

本社御祭神:大己貴命【おおなむちのみこと】(別名大国主命【おおくにぬしのみこと】、素戔嗚命【すさのおのみこと】、稲田姫命【いなだひめのみこと】

もとは和爾氏と櫟井臣の祖神とされている孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命【あまたちひこくにのおしひとのみこと】、日本帯彦国押人命【やまとたらしひこくにのおしひとのみこと】が祀られていたという。(由緒)

「万葉の会」のメンバー三十数人で当社を訪問しました。「せっかく遠くから沢山の人が来てくださったので・・・。」と玉垣内に入れて下さり、重要文化財の本殿を拝することが出来ました。御由緒も頂きました。
若宮神社の社殿(下段二枚目の写真)も玉垣内にあります。



若宮神社




若宮神社
(若宮神社の左手玉垣内に大歳神社の祠がある。)




境内の社務所の右隣にある燈籠
右の燈籠には「治道宮」の文字。(左の燈籠には「常夜燈」の文字)境内・参道を含め、治道宮と書かれた燈籠が圧倒的に多い。



左:琴平神社   右:熊野神社




左から、天照皇太神社、住吉神社、天満神社
写真左端(天照皇太神社の手前)の燈籠には「治道宮」の文字がある。
境外に恵比寿神社・金刀比羅宮・猿田彦神社があるようだ。(由緒)




「影媛あわれ」の碑

碑文横の掲示

影媛【かげひめ】あわれ
石【いす】の上【かみ】 布留【ふる】を過【す】ぎて 薦枕【こもまくら】 高橋過【たかはしす】ぎ 物多【ものさわ】に 大宅過【おおやけす】ぎ 春日【はるひ】 春日【かすが】を過【す】ぎ 妻隠【つまごも】る 小佐保【おさほ】を過【す】ぎ 玉笥【たまけ】には 飯【いい】さへ盛【も】り 玉もひ【たまもひ】に 水【みず】さへ盛【も】り 泣【な】き沾【そぼ】ち行【ゆ】くも 影媛【かげひめ】あわれ

 この長歌は、日本書紀 武烈【ぶれつ】天皇 即位前紀にある。
影媛は、以前から交際していた平群【へぐり】の鮪【しび】が、太子(後の武烈)の命で大伴金村【おおとものかなむら】の軍に乃楽【なら】山で殺されたのを悲しみ、布留から乃楽山まで行って、夫の葬いをいした。ここ檪本は、山の辺の道と都祁山道【つげやまみち】との衢【ちまた】に当たり、当時の政治・経済・軍事・文化の要衝であった。
 媛はその山の辺の道を、泣きそぼちつつ行ったのであろう。都祁山道をはさんで、南には物部氏【もののべし】、北には和珥氏【わにし】がおり、この辺りが勢力の接点であった。武烈天皇の母、春日大娘皇后【かすがのおおいらつめのきさき】は、雄略【ゆうりゃく】天皇が和珥臣深目【わにのおみふかめ】の女【むすめ】童女君【おみなぎみ】に生ませた女である。影媛は、物部【もののべ】の麁鹿火大連【あらかひおおむらじ】の女である。

解説 小柴幸夫 〔注〕読みかなは新かなづかい



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写真:2022.12撮影
home   作成:2022.12.13