墨坂神社【すみさか】(奈良県宇陀市榛原萩原)

宇陀川対岸より墨坂神社を望む

宇陀川対岸より墨坂神社を望む
標高500mの向井山の北麓に北向に鎮座する




墨坂神社境内入り口

境内入り口




鳥見山・旧社地方面を望む

正面に見えるのは鳥見山。旧社地もこの方向にある。




墨坂神社社殿

社殿




墨坂神社拝殿

拝殿

掲示

墨坂神社
御祭神 墨坂大神
神武天皇御東征の砌、大合戦の墨坂の地ですでに祭祀されていた神々である天御中主神
【あめのみなかぬしのかみ】、高皇産霊神【たかみむすびのかみ】、神皇産霊神【かみむすびのかみ】、伊邪那岐神【いざなぎのかみ】、伊邪那美神【いざなみのかみ】、大物主神【おおものぬしのかみ】の六神を総称して墨坂大神と申している。
日本書紀によれば、崇神天皇の御代春三月(西暦380年)国中に疫病が蔓延したため、天皇はいたく悩まれた時、或夜御夢に神人が現れて「赤盾八枚、赤矛八竿をもって墨坂の神を祀れ・・・」とのお告げにより御勅祭されたところ、たちどころに疫病は平癒し、もとの天下泰平となったと記されている。また天武天皇白鳳元年(西暦673年)に大伯皇女を使者として奉幣されたとも伝えられている。文安六年九月(西暦1450年)に墨坂から現在地に遷座されたものである。また、新抄勅格符抄によれば天応元年(西暦781年)「墨坂神一戸信乃」と記されており、現在御分社として長野県須坂市に墨坂神社が二社ある。
本殿は春日造で元治元年(西暦1864年)南都春日大社から本殿を拝領し、建造したものである。
御祭礼は11月3日で旧地御旅所から古式による渡行式が行われる。




墨坂神社の摂末社

境内社
左奥より、天神社、市岐島神社、菅原神社、恵比須神社、金毘羅神社、愛宕神社、稲荷神社、八幡神社




龍王宮

龍王宮
祭神:罔象女神【みずはのめのかみ】




『日本書紀』崇神天皇九年三月十五日の条に「天皇の夢【みゆめみ】に神人有【かみま】して、誨【おし】へて曰【のたま】はく、『赤盾八枚【やつ】・赤矛八竿【やさを】を以【も】て、墨坂神を祠【まつ】れ、亦【また】黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神を祠れ』とのたまふ」とあり、さらに同年四月十六日の条に「夢【みゆみ】の教【をしへごと】の依【まにま】に、墨坂神・大坂神を祭りたまふ」とある。

『古事記』には、崇神天皇の御世に疫病が流行、人民が死に絶えようとしたとき、大物主神が天皇の夢の中にあらわれ、意富多多泥古【おほたたねこ】に三輪の神を祭らせれば国は平安になると教えたので、それに従い、さらに天神地祇の社を定めたとあり、「また宇陀の墨坂の神に赤色の盾矛【たてほこ】を祭り、また大坂の神に墨色の盾矛を祭り、また坂の御尾の神また河の瀬の神に、悉【ことごと】に遣わし忘るること無く幣帛【みてぐら】を奉りたまひき、これによりて役の気【えやみのけ】悉【ことごと】に息【や】みて、国家【あめのした】安らかに平らぎき」とある。

『日本書紀』雄略天皇七年七月三日の条に「天皇、少子部連【ちひさこべのむらじ】スガルに詔して曰【のたま】はく、「朕【われ】、三諸岳【みむろのをか】の神の形を見むと欲【おも】ふ。或いは曰はく、此の山の神をば大物主神と為【い】ふといふ。或いは云はく。菟田の墨坂神なりといふ」とあり、スガルが大蛇を捕らえて天皇に見せたところ光輝いて正視出来なかったので別の岳に棄て、その岳に「雷【いかづち】」という名を与えたとある。すなわち、墨坂神は三諸岳(三輪山)の神大物主命と混同される神性をもっていたこと、雷神でもあったらしいことが知られる。

(『日本の神々4』白水社)




墨坂神社旧社地

榛原萩原、天の森にある旧社地(現社地と約1kmほど離れている)
神武紀の鳥見の霊畤【とみのまつりのにわ】の跡とも伝えられる(2015.04撮影)




鳥見山より墨坂神社を望む

鳥見山より墨坂神社を望む



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写真:2006.11、2015.04撮影
home   更新:2017.10.15a 作成:2016.02.13