宇太水分神社下社【うだみくまり】(奈良県宇陀市榛原下井足【しもいだに】)

参道入り口

参道入り口




靖国鳥居をくぐって参道を進む

靖国鳥居だ!




素晴らしい参道

素晴らしい参道を進む




手水舎

手水舎




拝殿

拝殿

御由緒
旧県社
「延喜式」神名帳の宇陀郡十七座のうち大社一座の論社です。

御祭神は、
 天水分神(あめのみくまりのかみ)
 国水分神(くにのみくまりのかみ)
 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
 品陀別命(ほんだわけのみこと)
末社祭神
 石上神社(磐長比賣命・いわながひめのみこと)
 稲荷神社(宇迦之御魂神・うかのみたまのかみ)
 金刀比羅神社(大名牟遥神・おおなむちのかみ)

 当神社の創祀年代は、太古の国史「三代実録」(奈良時代〜平安時代に編集された六国史本)によれば「貞観元年(859)9月8日宇陀水分神社へ風雨祈願に勅旨を遣わし幣(お金や織物等)を奉った」とあるから、その由来は実に古く、水分神は「ミクマリ」と読まれ、五穀豊穣と生命を宿す御神徳の高い農耕神として、人々の崇拝の対象とされてきたことが物語っている。
 延喜式神名帳では、当水分社は葛城、都祁、芳野水分と共に大和の四水分の大社とされていたが、応保年間(1160)頃より芳野川にそって三所三座(当社・古市場社・芳野社)に祀られている。
 一説には、古市場には天水分神、当社には国水分神、上芳野には若水分神を祀ったとも。あるいは、古市場には男神、当社には女神、上芳野には童神を祀ったとも伝えられている。一般には、上芳野の社を上社、古市場の社を中社、当社を下社と区別している。
 社殿は、明治のはじめ頃まで春日造りでしたが、明治11年に「神社形式令」により県社の指定を受け現在の神明造りになりました。

境内の掲示には上記「一説には」の出典や御渡に関する文章が書かれている。
「延喜式登載」や「水分由来集」や「神体形相記」によると、玉岡(古市場)水分は男躰、田山(井足)水分は女躰、中山(芳野)水分は童躰とあって、かつて祭礼には、中山水分から田山水分まで神輿の御渡があったと、伝えられている。




本殿と末社稲荷神社

玉垣越しに神明造の本殿を望む
本殿は明治のはじめ頃まで春日造りだったが、明治11年に「神社形式令」により県社の指定を受け現在の神明造りになったとのこと。(御由緒より)
右手は末社稲荷神社
祭神:宇迦之御魂神【うかのみたまのかみ】




末社金刀比羅神社

末社金刀比羅神社
祭神:大名牟遥神【おおなむちのかみ】




石段

もう一つの参道から境内へ



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掲載写真:2010.10撮影
home   作成:2016.11.16