石切劔箭神社【いしきりつるぎや】(大阪府東大阪市東石切町)
近鉄石切駅からまず石切劔箭神社上之宮に向かい、参拝後石切駅近くまで戻り、石切参道商店街を通って現御本社に至った。このルートだと、坂を登らなくても良いと思ったのだ。時間は9時半位だったと思うが商店街は6割以上開いていた。人通りも多かったが、占いの店が多かったのに驚いた。
表参道の一の鳥居になる? |
二の鳥居? |
参道の鳥居
四角柱の柱は住吉鳥居の特徴だが、住吉鳥居に存在する島木が無い。柱にころびがあるが貫の部分で垂直になっている。
笠木の中央部が曲線で盛り上がっているのも特徴的だ。モダンな感じのする鳥居だ。
写真右(絵馬殿が写っている)の鳥居の柱に「地鎮祭 昭和五十五年四月二十三日 建立 昭和五十五年七月二十三日 (以下略)」の文字。
境内にある案内図
絵馬殿
境内入り口の鳥居は一般的な明神鳥居
石切参道商店街を通ってくると、右手からこの明神鳥居の前に出てくる
参拝したのは六月下旬。茅の輪が見える。
参道商店街の人出からある程度予想はしていたが、境内には沢山の参拝客の方々がおられた。
写真左端にお百度石。十数人の方がお百度参りをされていた。
本殿
御祭神:饒速日尊【にぎはやひのみこと】、可美真手命【うましまでのみこと】
参詣のしおりから
御由緒
石切劔箭神社御鎮座の御由緒につきましては、今からおよそ七百年前、足利時代の末に兵火にかかり、社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではありません。しかしながら、延長五年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』の中には、既に「石切劔箭命神社二座」と記載されており、また延喜元年(901年)に成立した『日本三代実録』には貞観七年九月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されております。また、天文五年(1536年)に当神社社家の祖先藤原行春大人が社家に伝わる口伝をまとめた『遺書伝来記』によれば、神武天皇紀元二年、現生駒山中の宮山に饒速日尊を奉斎申し上げたのをもって神社の起源とし、崇神天皇の御代になって「下之社(現本社)」に可美真手命が祀られたとあります。
爾来、悠久の歴史を通じて、朝夕御皇室の御安泰と日本国の隆盛、並びに氏子崇敬者の無事繁栄を御祈願申し上げ、祭祀を継承し続けて今日に及んでおります。
左:遥拝所 中央:末社神武社 右:末社五社明神社
五社明神社祭神:恵比寿大神【えびすおおかみ】、大国主大神【おおくにぬしおおかみ】、住吉大神【すみよしおおかみ】、稲荷大神【いなりおおかみ】、八幡大神【はちまんおおかみ】
掲示
御五柱の神々を合わせてお祀り申し上げているところから「五社明神社」の社名をいただいております 商売繁盛はもとより 大漁成就 五穀豊穣 産業隆盛など様々なご商売を営まれる方々から篤い信仰をあつめています
神武社御祭神:神倭磐余彦命【かむやまといわれひこのみこと】
掲示
神武天皇が蹴り上げた「石」を御霊代としてお祀りしています この石は御東征のみぎり高天原の神々に武運を祈り蹴り上げたと伝わるものです 日本一運勢の強い開運の神であり延命長寿の神として信仰されています
左の遥拝所は案内図に「遥拝所」とあるだけだ。方位からすると生駒山に向かうことになり、御由緒から想像するに生駒山中の宮山または上之宮(または両宮)を遥拝する所ではないかと思うのだが・・・
末社乾【いぬい】明神社
掲示
祭神 應よう乾幸護大明神【おうよういぬいさぢもりだいみょうじん】
主神 伊嘉登気幸護彦【いかとけさぢもりひこ】
妻 乎乃曽比真幸津女【をのそひまさぢつめ】
子 樗g太太智雄【にぎはただちお】
子 万志尓弟和加恵【ましにをとわかえ】
江戸時代中頃、この地の信望厚い庄屋で飢饉と重税にあえぐ人々の代表となり直訴したかどで極刑に処せられた方が後に代官小堀家により應よう乾幸護大明神として祀られました 生前、学問に優れ数々の難問を解決された為に、祀られて後もその徳を慕い、御礼参りの方が絶えるこはなかったようです。
天明七年十二月に時の神祇伯資延王に勧請が認められ、この地にお祀りされることとなりました。
明治以降、学問の神として多くの崇敬を集めております
末社水【すい】神社
掲示
祭神 罔象女神【みずはのめのかみ】、天水分神【あめのみくまりのかみ】
水を司る二柱の神をお祀りしております
豊かな稲穂を実らせた河内の農業にとって雨は大切なものであり、祈雨祈晴を願う祈りが絶えることはありませんでした 天水分神は、「みくまり」が「みこもり(御子守)」に通じることから安産、子育ての神としても信仰されるようになりました 現在においても、人が健康に過ごす為に欠かすことのできない水や、水の恵みへの感謝と信仰は変わることなく、多くの崇敬を集めております
穂積神霊社
中央の石には「九頭神」の文字
写真:2020.06撮影
home 作成:2020.07.11