玉造稲荷神社【たまつくりいなり】(大阪市中央区玉造)

参道入り口

参道奥に拝殿が見える
古代、社域が難波玉作部の居住地域となったことから「玉造」地名発祥の地となった。
聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋と争った際、この玉作岡に陣を敷いたそうだ。(玉造稲荷神社公式サイトより)

拝殿

右手に本殿の屋根が見える(流れ造か?)
| 掲示 玉造稲荷神社 ご由緒 主神 宇迦之御魂大神【うかのみたまのおおかみ】 相殿 下照姫命【したてるひめのみこと】 月読命【つきよみのみこと】 稚日女命【わかひるめのみこと】 軻遇突智命【かぐつちのみこと】 創祀は垂仁天皇十八年秋(紀元前十二年)とされ、古代には「日本書紀」に記された玉作部の移住地にもなりました。その後、物部氏と仏教受容問題で争った聖徳太子(厩戸皇子)は、当神社において戦勝を祈り、戦乱後は自ら観音堂を当地へ建立されたと伝わっています。一方、近世に至っては豊臣家が大阪城の鎮守神として祈り、この後、徳川の世に入っても大阪城代着任の際、当神社に参拝し定紋の捉灯を奉納する等その厚い信仰は引き続き継がれました。明治期から戦前にかけて、全國の神社が国家管理となり、社格も当社は「府社」となりました。 平成元年(西暦一九八九年)には「創祀二千年祭」を挙行しました。 |

厳島神社の鳥居を潜っていくと・・・

厳島神社

左:新山稲荷 右:万慶稲荷

胞衣塚【よなづか】大明神

豊臣秀頼公奉納鳥居 慶長八年(1603)三月吉日銘
阪神・淡路大震災で損傷を受け役目を終わる

『摂津名所図会』に描かれた秀頼公奉納鳥居

秀頼公像の背後にある家形埴輪の様な建物は、難波玉造資料館

境内掲示
写真:2015.10撮影
home 作成:2026.02.24