露天神社【つゆのてんじんしゃ】(大阪市北区曽根崎)

学生時代美術クラブに入っていた。その時、定期的に梅田のU画廊でクラブの作品展を開いていた。JR大阪駅から画廊まで歩いて行くとき、「お初天神」という文字を見た記憶がある。「へぇ、この辺りにあるんだ。」と思った。本かTVかでその名を知ったのだろう。当時、建物と建物に挟まれた、小さな鳥居と小さな祠がある神社だろうと勝手に想像していたのだが、今回初めて訪れて予想外の広さに驚いた。

表参道入口

表参道入り口




拝殿

拝殿




拝殿と桜

拝殿(桜の幹の後ろに、本殿の屋根がかすかに見えます。)
境内のあちこちに桜が咲いている。参拝したのは3月の終わり頃だった。




拝殿と絵馬

拝殿
左にぶら下がっているのは、心姿美人祈願の絵馬。顔は自身が描くようで、タイプの異なる美人さんが描かれておりました。




本殿

本殿

御祭神
少彦名大神【すくなひこなノおおかみ】、大己貴大神【おおなむちノおおかみ】、天照皇大神【あまてらすすめおおかみ】
豊受姫大神【とようけひめノおおかみ】、菅原道真公【すがわらみちざねこう】

由緒
御本社
 創建以来一千三百年の歴史を持つ古社で、「難波八十島祭【なにわやそしままつり】」旧跡の一社である。曽根崎・梅田地域の総鎮守として現在も崇敬を集める。

 社伝によると、当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭」(注1)旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。
 創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥三年(850年)にまで遡ることができ、六世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。
なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。
 南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。
以後、明治七年(1894年)の初代大阪駅、明治三八年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。

注1「難波八十島祭」
 古代難波において、王権のもとに執り行われた最も古い祭祀とされ、奈良時代には即位儀礼の一環として、即位の翌年に、天皇自ら難波の海辺に行幸し斎行されていたと考えられている。

(御由緒より)

社名の起こり
菅公が当地で詠まれた御歌
「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に因る。(その他諸説有り)

 昌泰四年(901年)二月、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中、福島に船泊まりされた折に、当社東方に伽藍を構える「大融寺」に船頭茂大夫の案内でご参詣の道すがら、当地で、上の歌を詠ぜられた。この故事にちなみ、露天神社【つゆのてんじんしゃ】と称すると、伝えられている。(『摂津名所図会』に記載の説)
 なお管公は、元和八年(1622年)三月に、二郎左衛門九世の孫・渡辺新兵衛源尋が、大阪夏の陣の兵火で焼失した当社社殿を再建するとき、その御霊代として後陽成天皇より御神名御宸筆を賜り相殿に合祀された。

◆『摂陽群談』では、入梅の時期に祭礼をすることから「梅雨天神」と称するという。また、他説では梅雨時期になると清水が湧き溢れる井戸(注2)が境内に存することによるとも伝えられている。

注2、浪速七名井「神泉 露の井戸」
 真水の少ない大阪で、周辺地域のみならず社地横を通る旧池田街道を行き通う人々にとっても、貴重な井戸であった。
 梅雨時期には清水を地上に湧き出したと伝えられ、当社社名の起こりともいわれる。境内に現存するが、水量は少ない。

(御由緒より)




境内末社 金刀比羅宮・水天宮

左:境内末社 金刀比羅宮 右:境内末社 水天宮




境内末社 開運稲荷社

境内末社 開運稲荷社




朝日神明社

朝日神明社
御井社・祓戸社

御井社・祓戸社

境内掲示

難波(夕日)神明社
御祭神 天照皇大神・豊受姫大神

社殿が西向きでありしをもって「夕日ノ神明社」とも通称されたこの神社は、平安時代初期弘仁十二年(821年)二月 嵯峨天皇の皇子 河原左大臣 源融【みなもととおる】公が、葦草茂る中州(現在の曽根崎一丁目付近)皇大神宮を祀られたのが始めと伝えられている。
往時はこの地を「大神宮の北の洲」または「神明の鼻」と称し一帯をもって境内地としていた。付近(現、西天満三丁目)の旧町名「伊勢町」の起源といわれる。

文治年間(1185〜1189)には「源 義経公」より願書と共に寄付物が奉納されたと伝え、
後醍醐天皇の御代には勅願所となり度々行幸の栄を受け、江戸期に至りては、大阪城代及び両町奉行の参拝社となり境内も広大であった。

また旧暦六月一日には、氷室に貯蔵の氷を配り「はやり病の無事息災」を祈願したという。この神事を一般に「氷の朔日」と称し、近松の『心中刃氷朔日』の題材となったいう。

かつては、西向きの当「夕日ノ神明社」・東向きの「朝日ノ神明社」南向きの「日中ノ神明社をもって「大阪三神明」として崇敬された。

しかし、天保五年(1834年)七月十一日・明治四十二年の「北の大火」と両度被災炎上し、復興叶わず明治四十三年露天神社に合祀された。

現在同社地には「神明社旧跡」の碑が建立され往時を偲ぶよすがとなっている。

大坂三神明
 日中ノ神明社:大阪市大正区鶴町にある神明神社
 夕日ノ神明社:当社
 朝日ノ神明社:大阪市此花区春日出中にある朝日神明社


境内掲示

御井社・祓戸社
御祭神
 御井神
  古くより露ノ井と称され、人々の暮らしを支え信仰の対象でもありしこの御井に坐す神
 祓戸四柱ノ大神
  瀬織津比め[口+羊]大神
【せおりつひめおおかみ】・速開都比め[口+羊]大神【はやあきつひめおおかみ】・気吹戸主大神【きぶきどぬしおおかみ】・速佐須良比め[口+羊]大神【はやさすらひめおおかみ】 軽重様々、すべての罪や穢を祓え給う神々


社殿直下の御井は、往時四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸等と共に「浪速七名井」の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸縁より涌井せし、という。

名井「露ノ井」として当社社名の由来の一つもいわれ、周辺地域をはじめ、社地前旧池田街道を行き通う人々の貴重な清水であった。

現在では、地下鉄各線や高層ビル群の建設等により、地下水脈が分断され水位が著しく低下してる。




曽根崎道祖神 難転石

左手:曽根崎道祖神、右手:難転石(水圧で丸い石が回転している)
(難転石は縁起物の南天を連想させますね。)


お初・徳兵衛の銅像 私は、露天神社という社名は知らず、ずっとお初天神で記憶していた。「お初」とは、近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曽根崎心中」のヒロインの名前だ。ただし、元禄時代の実話を元にした作品で、当社の裏手にあった天神の森で、お初と徳兵衛が心中したそうだ。

八角柱の台座には以下の文章が書かれている

貴賤群集の回向の種
未来成仏疑ひなき
恋の手本となりにけり


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写真:2018.03撮影
home   作成:2018.07.05