苗村神社【なむら】(滋賀県蒲生郡竜王町綾戸)
県道541号線をはさむように、東西二つの境内二つの本殿を持つ。東本殿は森の中にあり、逆に西本殿は開放的だ。
古くから東本殿側を長寸【なむら】神社と称していたと伝えられる。蒲生郡の式内社「長寸神社」の論社の一つである。
「長寸」の訓みについては「ナカムラ」「ナカス」「ナカノキ」などの説もある。
日本書紀垂仁記三年条に「天日槍【あめのひぼこ】、菟道河【うぢがわ】より泝【さかのぼ】りて、北【きたのかた】近江国の吾名邑【あなのむら】に入りて暫く住む」と記された「吾名邑」を当地に比定し、アナムラ→ナムラの変化を想定する説もある。
この東本殿の森の中には古墳に用いられていたような石が点在し、古墳とおぼしき土盛りがみられることなどから、祖霊信仰に始まる神社ではないかという感が強い。(日本の神々4)
今回は東本殿から参拝する。
鳥居の額には「長寸神社」の文字、社名標には「式内長寸神社」
11年前に比べ、燈籠の数が増えていた。
参道が良い感じだ
左から、佐々貴社 東本殿 天神社 が並ぶ
境内掲示
重要文化財 大正十三年四月十五日指定
東本殿 苗村神社
建立年代は、明らかでないが、向拝の蟇股【かえるまた】の様式は、室町時代のものであり、前庭にある永享四年(1432)在銘の石灯籠は本殿の建立と関係があると考えられる。 また、正徳四年(1714)には、大半の部材を取替える大修理があり、当初の形式が変えられたが、昭和三十三年の解体修理で、資料にもとづいて復原整備された。
正面は、格子戸であるが、少し入ったところに幣軸を廻らして板扉を建て、東側面にも同様の扉口を設け、母屋の実肘木【さねひじき】を通し材とし、妻飾の■首【さす】組頂に花肘木【はなひじき】を組みいれるなど、西本殿傍の八幡社本殿と共通する点が多い。なお、内外陣境の腰嵌板【こしはめいた】の彫刻格狭間【こうざま】は県下に類例が多いが当時の装飾手法として見るべきものがある。
平成四年一月 竜王町教育委員会
西本殿に向かう。茅葺きの楼門が印象的だ。
境内掲示
苗村神社
御祭神 那牟羅彦神 那牟羅姫神 国狹槌尊
御神徳 開運招福 家内安全 厄除 産業 工芸技術 五穀豊穣 子授け 安産 子守りの守護神
御由緒
当社の御鎮座は上古に属し、平安時代の延喜式神名帳に長寸神社と記す格式高い神社である。
社伝によれば垂仁天皇の御代に当地方を開拓された御祖を最高の産土神と崇めお祀りされた(東本宮)のが創祀とされる。その後、冷泉天皇の安和二年(969)三月二十八日大和国吉野の金峯山より主神の一柱を勧請し、祀る社殿を造営された(西本宮)ことから両本殿がある。
爾来、諸願成就の神として尊崇し親しまれ、近郷三十余郷の総鎮守として社運年毎に栄えきた大宮である。
長寸神社に苗の字を用いたのは、寛仁元年(1017)後一条天皇より苗村の称を賜り現在に至る。
当社殿再建棟札銘文に曰く、当社の修造は遠所まで沙汰して造立され、建保五年(1217)には有勢の豪族が神事を掌ったことが記されている。
天文五年(1536)には、後奈良天皇は当社に正一位の神位を奉授され、よって勅使が参向し神主任官神号宸筆勅額法楽和歌の寄贈等皇室及公卿との関係頗る親密にて深く尊崇された。天正年間に、織田信長が馬鞍一具と大刀七振りを献上する等由緒は顕著である。
当社の例祭は毎年、四月二十日に斎行され、殊に三十三年毎に式年大祭を執行し古式ゆかしく行われる。
神域には国宝西本殿を始め、他五棟の建物及び木造不動明王立像等(いずれも国の重要文化財指定)が保存され悠遠なる名社としての歴史を物語っている。
楼門
境内掲示
重要文化財 明治三十七年二月十八日指定
楼門 苗村神社
建立年代は、明らかでないが、蟇股【かえるまた】の輪郭部や斗拱【ときょう】の形式などの技法から、応永(1394〜1427年)ごろの造営と考えられる。
構造は、三間社一戸楼門入母屋造【さんげんしゃいっころうもんいりもやづくり】の茅葺で、この地方最大規模の和様を基調とした遺構である。
また、上層の扉や連子窓も古式を示し、軒尾垂木【のきおだるき】の先端を斜に造り、強い反りをつけているなど禅宗様の手法も混用されている。下層は、縦横に貫で組まれるほか、斗拱間の小壁に至るまで開放されており、中央に扇もない形式は珍らしい様相といえよう。
平成四年一月
竜王町教育委員会
拝殿右手玉垣内は十禅師社
境内掲示
重要文化財 昭和四十六年六月二十二日指定
境内社十禅師社本殿 苗村神社
この本殿は、社名が示すように、山王二十一社のうち上七社の一社十禅師の分霊社であって、天台宗護法神の一社であるから、台密【だいみつ】勢力のもとに苗村神社社域に勧請された社である。
構造は、一間社流造【いっけんしゃながれづくり】で、屋根は檜皮葺【ひわだぶき】である。また、蟇股【かえるまた】など装飾を施さない古式をとどめた社殿で、母屋の内部は一室とし、正面に幣軸板扉を設け、他の三面を板壁とする。
建立年代は、明らかでないが、室町時代(1430年)に建てられたと考えられる。
平成四年一月 竜王町教育委員会
西本殿
境内掲示
国宝 明治三十五年四月十七日指定
西本殿 苗村神社
この本殿は、社蔵される棟札から徳治三年(1308)に再建されたと考えられる。
構造は、三間社流造【さんげんしゃながれづくり】で、前面は一段低い床張りとし、菱格子を入れて前室を作り更に一間の向拝を出し、屋根は檜皮葺とした形式は総体的に鎌倉時代後期の特質を現わしている。殊に、左右相称の透彫【すかしぼり】を施した正面二個の蟇股【かえるまた】は美しい。また、殿内の厨子は小規模で簡素であるが手法は優れ、本殿と同時代の作と見られ、共に国宝文化財となっている。
なお、社蔵される棟札は近在に見られない古物品て、当時における修造の様子、活動人士、神事の有力な担当者等が明記され、当社歴を知る貴重な資料である。
平成四年一月
竜王町教育委員会
玉垣内、八幡社(左)と西本殿(右)
八幡社
境内掲示
重要文化財 明治三十七年二月十八日指定
境内社八幡社本殿 苗村神社
建立年代は、明らかでないが、東本殿・楼門などと同時代に、境内整備に伴なって建てられたと考えられることや、その様式から見て、室町時代(1430年頃)の建立と考えられる。
構造は、一間社流造【いっけんしゃながれづくり】で、屋根は檜皮葺【ひわだぶき】である。この社殿の特色は、側面に幣軸板扉の出入口を設けていることで、このような形式は一間社流造の本殿では、我が国でも数が少ない。母屋の三面・向拝には美しい蟇股【かえるまた】を飾りつけている。
平成四年一月 竜王町教育委員会
神輿庫
境内掲示
重要文化財 昭和四十六年六月二十二日指定
神輿庫 苗村神社
桁行四間、梁間二間、切妻造りの軽快な建物で、正面及び北側面に各一ヶ所の出入口があるほかは柱間のすべてを板壁とした簡素な外観である。建立は社蔵文書によると天文五年(1536)に正一位の神位を受けたとき、勅使の装束召替仮殿【しょうぞくめしかえかりでん】として建て、のぢに神輿庫に用いたとある。装束召替仮殿としての用途は限られた期間てあリ、また平面が出入口のほかに開口部のないことは、当初から神輿庫あるいは御供所などの倉庫的な再利用を企図して建てられたものと考えられる。
全国的に頬例の少ない遺構としても貴重である。
平成四年一月 竜王町教育委員会
home 作成:2012.07.15