大皇器地祖神社【おおきみきじそ】(滋賀県東近江市君ヶ畑町)
参道を振り返る。写真左手に山ノ神が祀られている。
「雪が積もった日、このアングルから見る景色が一番好きだ。」と地元の方がおっしゃった。
(納得するも、日差しが強く、私のカメラの腕ではこの程度)
社殿
境内掲示
大皇器地祖神社由緒記
一 祭神 惟喬親王(第五十五代文徳天皇第一皇子)
当郷は惟喬親王の御領地(小椋ノ荘園)であって親王御入山遊ばされ、諸種の民業を振興され就中轆轤を用いて椀器製作の業を伝え給う。或いは、樫の木の実を叡覧ありて、椀器製作の術を感じ給うとも伝えられる。これは、我が国における椀器製作の根本であり、作る職人を木地師と言う。以後全国に木地師として栄え、現在に至りても、木地及び金属の挽物職人として重要な位置にある。
親王は或時、侍臣を召し集め「元慶三年(879)十一月九日を以て入寂の日と定め、たとえ余命あるとも、其の期日を以て縁日とせよ。」と仰せられるに仍って、侍臣藤原光長卿は都に上がり、謹んで旨を清和天皇(文徳帝第四皇子)に奏上、天皇は太皇大明神として守護すべき旨御諡号を賜り、翌年(880)四月三日に神殿の造営なり親王の御神霊が鎮祭される。これが当社の創始された所以である。
白雲山小野宮器地祖大明神と敬拝し奉る。今や諸国より産業の神として崇敬されている。
明治十五年十二月社号を大皇器地祖神社と御改諡になる。
同二十六年、内務所より当社保存金として、金壱百円也を下付される。
以上
大皇器地祖神社と金龍寺の中間にある。石柱には「日本國中木地屋氏神惟喬法親王御廟所」の文字。
この日は5月5日、八重桜に出会えました。
掲示
器地祖神社と高松御所
文徳天皇第一皇子惟喬親王は、母が紀家である事より藤原良房は其の娘明子の生んだ第四皇子惟仁親王を皇位継承者と定めた。
惟喬親王は都を逃れ出て遠く此の山里に幽棲、自ら法華経の経を引くと軸の回る原理より轆轤を発明され、日本国木地師の元祖になられたと伝えられる。(木地師縁起書)
のち地名を君ヶ畑、親王住居を高松御所金龍寺、親王を祭神に器地祖神社が祀られた。
その後木地師は全国の山々に分散したので此の地より諸国への氏神狩が始められ、元禄七年〜明治二十六年の氏子駈帳(県町指定文化財)には、北は羽前、岩代、下野、武蔵、相模、信濃、越前から、南は伯耆、石見、安芸、安房、伊予、土佐、日向に至るまで、戸主のみで一万人余が記載され、明治五年には一、五六三戸が君ヶ畑を本籍地として戸籍の届出を行っており、今日もなお各地よりの団参者が後を絶たない。
永源寺町教育委員会(町村合併前、君ヶ畑は永源寺町に属しておりました。)
石段を登ると宝篋印塔がある。写真は左横へ回り込んで写したもの。
蔵皇山金龍寺。石柱には「日本國木地椀祖神鎮座」の文字。
掲示
惟喬親王幽棲の跡
木地師発祥之地
貞観元年(859)人皇五十五代文徳天皇第一皇子惟喬親王はこの地に幽棲され蔵皇山金龍寺他二ヶ寺を創建、仏教に帰依された。親王は金龍寺にお住まいになり、村人はこれを高松の御所と崇め親王の御人徳を慕った。元慶三年(880)親王遺命薨去された時、村人は氏神大皇大明神として祀ることとした。これが現在の大皇器地祖神社である。親王は御在世中に轆轤を用ちい、木地で椀器を製作する業を村人に授けられた。その業を伝承する者を木地師と称し現在全国にあって親王を祖神と崇敬し工業界に活躍している。
永源寺町教育委員会
中央額には「蔵皇山金龍寺 高松御所」の文字
駐車場の側に小さな資料館があり、轆轤【ろくろ】や轆轤で挽いた作品、轆轤鉋【ろくろがんな】等が展示されていた。
NHK大河ドラマ「MUSASHI」(2003年放送)で、夫婦が轆轤を挽いている場面があった。(と記憶している。)
夫が轆轤鉋を使い、妻が轆轤を回していた。(と記憶している。)
写真:2010.05撮影
home 作成:2010.10.30