多賀大社【たが】(滋賀県犬上郡多賀町多賀)

境内入り口

延喜式神名帳に「多何【たか】神社二座」とある。一般には「多賀大明神」「お多賀さま」と呼ばれてきた。
明治11年「多賀神社」と社号を定めた。大正3年に官幣大社となり、昭和22年中世の社名を復活して「多賀大社」となった。

延喜式は「多何」を「タカ」と訓じている。古文献が当社の社名・神名・所在地の郷名を「多賀」「田鹿」「田呵」「田可」などと表記していることから、古くは「タカ」と清音で呼ばれていたようだ。




茅輪をくぐると太鼓橋

中央に太鼓橋、その奥に神門が見える
この太鼓橋をしゃれて、太閤橋とも言うそうだ。
豊臣秀吉は、生母大政所の病気平癒を祈って「三年が成らずば二年、それもならずば三十日でも延命を」
という願文を奉ったという。また社殿を造営し、三二四石を寄進している。




神門から社殿を見る

神門から美しい社殿を見る



社殿

現社殿は昭和四年国費により起工、同七年竣工、同十四年に本殿の遷宮をみたものである。
江戸時代においても幕府より三十万両の寄進を受け、寛永十一年(1634年)から五年の歳月をかけ社殿を建設している。




社殿

拝殿・神楽殿・弊殿・本殿と、重なる甍が荘厳さを増す




拝殿より本殿方向を見る

祭神
伊邪那岐大神 【いざなぎのおおかみ】
伊邪那美大神 【いざなみのおおかみ】
古事記には「伊邪那岐大神は淡海【あふみ】の多賀にまします」との記述がある。

十四世紀後半には修験道との習合が行われていたと考えられる。修験者が諸国に延命長寿の神徳の宣布につとめた結果、一地域の氏神から全国的な崇敬神へと変容をとげたと考えられる。近世には、伊勢参宮の流行にともなって庶民の注目をいっそう集め、「お伊勢参らばお多賀に参れ、お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七たび熊野へ三たび、お多賀さまへは月参り」の有名な俗諺が生まれた。中仙道という伊勢参宮街道に近いので、お伊勢詣での行き帰りにお多賀さんにも立ち寄ったと思われる。

「神体山」(景山春樹著)には以下の様に書かれている。
旧中仙道が通っていた高宮町には多賀大社の一の鳥居がある。ここから真っ直ぐに多賀大社まで参道が導かれている。この高宮町から、多賀大社の社叢のはるか彼方に、杉坂に有る神跡の神木(伊邪那岐大神が箸を突き刺したら成長したと言い伝える)も見える。古代においては、平野地帯から臨まれる近傍に特異な山容や林相を呈する山々は、信仰の対象または信仰の場となった。ここがすなわち高【たか】の宮であり、多賀の義である。平地から高の宮を臨むことができる範囲が信仰の範囲とも言える。高宮町もその範囲である。多賀大社の南に胡宮神社があるが、胡宮【このみや】は高宮【たかのみや】を音読した「こうのみや」がつづまった社号と考える。次に伊邪那岐大神は杉坂を下って麓に至り休まれたところが、栗栖にある調宮【ととのみや】であるとの伝説がある。次に大神は「移って日之少宮に入り給う」と有りこれが今の御鎮座地多賀大社である。杉坂の祭祀場が「山宮」(高宮)、麓の調宮の祭祀場が「里宮」、多賀大社の有るところが「田宮」という関係になる。おくついわくら、なかついわくら、へついわくらの関係でもある。




愛宕社、秋葉社

愛宕社、秋葉社




延命石

寿命石
境内掲示

寿命石と祈願の白石
 今から八百年前、俊乗坊重源は後白河上皇から、南都東大寺再建の大勧請を仰せつけられた。上人はまず大神宮に三度参詣、さらに寿命守護を祈るため当大社に参籠し、満願の暁に「莚」の字の虫食いのある柏葉を授かり二十年の延命を感得、ついに大業をとげたと云われている。
この寿命石は上人がその霊験を頂いた際のゆかりの石と伝えられている。
 重源上人が授かった『柏葉莚字』・・・・柏の葉のご神託により延命を授かったこと・・・・の故事に因んで、昔から白石にもろもろの願いを込めて、寿命石に祈願する人々が絶えません。

(以下略)



境内社

左は熊野新宮社・天神社・熊野社と、右は聖社・三宮社




境内社

竈神社、年神社




境内社

金咲稲荷社




境内社

左から日向社(延喜式内社)、子安社、神明両宮社が並ぶ


境内社

夷社


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home   作成:2012.05.19