八幡神社【はちまん】(三重県名張八幡)

参道入り口
参道入り口



参道
階段を登ると長い参道が続く。奥に手水舎が小さく見える。



参道
手水舎の手前を左に折れると拝殿が見える。



境内・拝殿



祭神

誉田別命(応神天皇)【ほんだわけのみこと(おうじんてんのう)】
健速須佐之男命【たけはやすさのおのみこと】
大山祇神【おおやまづみのかみ】
大日■貴命(■:「雨」冠+「口口口」+「女」)【おおひるめむちのみこと】


古くから地区の氏神として現在地に鎮座しておりました。明治40年6月1日、区内の神明神社、同境内社津島神社及び山神社を合祀したが、翌41年2月16日、西田原春日神社に合祀されました。しかし、強制的な合祀に反対の区民は県に対して分祀を請願しておりましたが、昭和11年拒否されるにおよび非公式に復祀を断行しております。そして、戦後、正式に復祀されました。
本殿
本殿


唐琴伝説

八幡神社には「唐琴」(からこと)の伝説があります。「三国地誌」に「八幡祠。一名唐琴明神」、また「伊水温故」に「唐琴社。八幡村在所の名も加羅坤土という。今あるところの民ら、加羅子の八幡という」とあるそうです。
また次のような伝説があるそうです。
「安康天皇の御宇、出雲国造伊賀に来たり、神功皇后の社を祭る。国造夢託によるなり。皇后所持の琴をもって神体となす。この琴は三韓に得るところなり。」三韓征伐のとき持ち帰ったカラの琴がカラコトの語源という。(「伊賀史」)
「天武天皇霊夢に感じ創するところ、始め大和の国丹生河上にあり。後、この地jに遷奉すと。住吉表筒男、中筒男、底筒男の三神をまつり、また村上天皇のとき、神功皇后を配す。のちこれを改む。」(「伊賀国誌草稿」)
「聖武の朝、一国に一ヶ所の八幡宮を祀らしめるの時、当村の八幡なればとて、唐琴社に応神天皇を奉祀せりと」(「名賀郡郷士史料」)

特殊神事

1月17日境内で弓引神事が行われる。この行事は、約三百七十年前から伝わるとされている。昔八幡の若者が京都を訪れた際に、弓が苦手な武士を笑ったところ、「お前が射ろ、当たらなければ命はもらう。」と言われた。若者が氏神である八幡神社を念じて矢を放ったところ、見事命中し命が助かったという昔話が由来とされる。弓を引くのは十人衆で年長順に選ばれる。(最近は一般参加も認められているようです。)的は、青竹で作った枠に「鬼」と書いた紙を貼ったものを用いる。滝之原の若子祭りではわざと的を外して射るのに対して、八幡区では必ず的に矢を当てなければならない。的からの距離は20mある。的に矢が当たるまで十人衆が交代で射る。一巡して誰も当たらなかった場合は、的までの距離を縮めていく。

 八幡神社の地図 ←地図  

写真:2007.03撮影
home   更新:2009.04.25 作成:2007.05.02