愛宕神社【あたご】(京都市右京区嵯峨愛宕町)

渡月橋から望む愛宕山

嵐山渡月橋付近から望む愛宕山
特徴的な山容は京都のどこからでも見分けが付く。この山容から、山自体が古くより信仰の対象として崇められたのだろう。
標高924mあり、800m以上を歩いて登ることになる。




愛宕神社一の鳥居

愛宕神社一の鳥居
愛宕神社二の鳥居

二の鳥居



ケーブルカーの廃線跡を右手に眺め、水飲み場を過ぎてさらに登ると分教場の後があった。以下は分教場の説明掲示

嵯峨小学校 清滝分教場跡

明治15年当地で嵯峨小学校清滝分教場として創立された。しかし、大正11年に火災により学校は焼失された。
その後、第2分教場を表参道13丁目登り口に開設される。
尚、分教場での学習は小学校1年生と2年生のみで3年生からは本校へ。
そして、昭和4年に愛宕電車が開通し清滝分校は廃止、本校に併合し、建物は清滝自治会に寄贈されて清滝会議所となる。




参道の石仏と丁石 お地蔵さんタイプと石版タイプの丁石

参道掲示

愛宕神社表参道の丁石(町石)

 愛宕神社までは、鳥居本の一の鳥居を起点として五十丁(約5.5km)と言われる。表参道沿いには、板碑【いたび】型と地蔵型の丁石(町石)が建立されている。
 愛宕の本地仏【ほんじぶつ】である地蔵菩薩の種子「力」と里程が陰刻された板碑型と、地蔵菩薩の光背部分に里程が示されている地蔵型の二種類である。(現存確認できているのは、五十基中板碑型が三十二基・地蔵型が四十基)。
 残念ながらこれらあの町石の建立年代はわからないが、一丁目と五十丁目の地蔵型丁石には、「教学院 施主伊勢津左野宗吉」とあり建立者がわかる。
 江戸時代の墓碑銘【ぼひめい】などを集大成した「事実文編」【】には、愛宕神を崇敬し日々お詣りをしていた東条道西(現亀岡市馬路町出身)という人物が、険しい山道を整備し、登山の便を図るため丁石を建てたとある。よって「道西の町石(丁石)」と称されたと記されている。また儒学者貝原益軒【かいばらえきけん】が著した案内書『京城勝覧」【けいじょうしょうらん】にも「町毎にしるしの石立たり」とある。
 現在表参道に建っている丁石が、前の資料に記されたものかはわからないが、しばし歩を休め、丁石を見ながら登るのも一興かも。

京都愛宕研究会




 写真はハナ売場を過ぎた辺りにあった丁石。お地蔵さんの目鼻立ちもかすかにわかり、保存状態は良い方だ。



火燧権現 火燧権現

火燧権現

火燧権現跡

参道掲示

火燧権現跡【ひうちごんげんあと】
愛宕神社まで3.7km

 ここ十七町目には、清滝社火燧権現、あるいは下権現社【しものごんげんしゃ】とも呼ばれた二間一間の朱塗の社があり、山頂の愛宕社と同様に火の神火産霊命【ほむすびのみこと】をまつっていた。「扶桑京華志」【ふそうけいかし】(1665年刊行)には、京洛【きょうらく】に火事が起これば社が鳴動【めいどう】するところから名付けられたといい、火事と深く関わりのある社であった。
 室町期、大覚寺の寺務を執り行う坊官【ぼうかん】の支配下にあった愛宕山は、戦国の争乱を経て神宮寺である白雲寺【はくうんじ】に実権が移ったが、この社だけは従来通り坊官から神事奉行【しんじぶぎょう】を出し、祭礼や平日の神供燈明【しんくとうみょう】の世話をすることになっていた。
 明治十六年(1883年)に愛宕神社が提出した「葛野郡神社調」【かどのぐんじんじゃしらべ】によると、同十二年(1879年)に、銅鳥居【あかかねのとりい】上の神門【しんもん】横へ「燧神社」【ひうちじんじゃ】として移したとあり、現在地には石碑のみが残る。
京都愛宕研究会



火燧権現を過ぎて大杉社に至るまでにあった色々な掲示

壺割坂(十八丁目)
 昔、宇治のお茶を山上に貯蔵して、江戸幕府(将軍)に献上していました。ある時、そのお茶壺を割ってしまったことから、この坂の名がついたそうです。



20丁目 一文字屋跡
現在の京都バス「清滝駅」の前で営業されている「一文字屋」が営業されていた茶屋の跡です。
愛宕ケーブルが開通してからは、ケーブル「愛宕駅」の駅舎の2階で飲食業を営まれていました。

京都愛宕研究会



二十五丁目
茶屋跡【ちゃやあと】  愛宕神社まで約2.9km

愛宕参詣道の起点一の鳥居から愛宕神社までの五十丁の参道沿いには、多くの茶屋が設けられていた。この場所は、ちょうど真ん中の二十五丁目にあたり、「なかや」という茶屋兼宿屋があった。店の女たちは。「あたご山坂エー坂エー坂、二十五町目の茶屋の嬶【かかあ】、嬶旦那さん、しんしんしんこでもたんと食べ、坂をヤンレヤンレ、坂エー坂エー坂坂坂」などと歌って参拝者を迎えたという。「しんこ」とは米粉を練って蒸したお菓子で、『水の富貴奇』【みずのふきよせ】(1778年刊行)「名物之部」【めいぶつのぶ】にも「あたごしんこ」と書かれた愛宕詣の名物である。
 茶屋は「なかや」だけではなく、一町毎にあったと言われ、明治初めには十九軒あった。現在参詣道各所に残る石垣はその名残である。

京都愛宕研究会




大杉社 大杉社

大杉社




下界

かなり登ってきました




急な登り

急な登り
登りは心臓に負担、帰りの下りは膝に負担。膝に違和感を感じた時、ヒアルロン酸・グルコサミン・コンドロイチン等が頭をかすめた。




下界 参道掲示

カワラケ投げ      愛宕神社まで約1.6km

 愛宕山の参道は眺望がよく、和歌山や淡路島まで見通すことができた。それらの場所には茶屋があり、カワラケ投げも楽しめた。この愛宕山のカワラケ投げは有名だったようで、落語や大念仏狂言【だいねんぶつきょうげん】にも題材として取り入れられている。
 遊び方は、カワラケを投げ、風に従って飛鳥のように深谷に落ちていくのを楽しむもの。この投げ方は難しいらしく、大念仏狂言「愛宕詣り」には、お参りに来た旦那【だんな】と供【とも】が、カワラケ投げをして遊ぼうとするがうまく投げられず、見かねた茶屋の女が手本を見せて一緒に楽しむという場面がある。
 昭和初期には、後方の尾根側からこの谷に向かって投げられた。当時は輪に通す形式だったが、現在はおこなわれていない。

京都愛宕研究会



ハナ売場 左奥に見える建物はハナ売場。この日は閉まっていた。

参道掲示

ハナ売場 愛宕神社まで   1.1km

愛宕さんの火伏【ひぶせ】の神花樒【しんかしきみ】の売場。『洛西嵯峨名所案内記』(1852年刊行)「樒枝売場」【しきみのえだうりば】には、「土人花うり場といふ。古来樒を此山の神符とし、火災を除く。水尾村の女毎日此所に出て売る。参詣の人是をもとめ土産とす。」とある。水尾の女性が毎日ここまで上がって来て樒を売り、お参りした人々は、火災を除く神符としてお土産にした。
近年まで、水尾の女性は、榛【はん】の木で染めた三幅【みはば】の前垂【まえだ】れをつけ、樒を背負って水尾から愛宕神社まで上がり、神前に供えてから販売をしたという。毎日樒の葉を一枚づつ、オクドさん(竈【かまど】)にくべると火事にならないと言われ、竈が無くなった今でも多くの人が買い求める姿を見ることができる。

京都愛宕研究会



黒門 参道掲示

黒門【くろもん】   愛宕神社まで約0.45km

 京口惣門【きょうぐちそうもん】とも呼ばれた、白雲寺【はくうんじ】の京都側の惣門。ここから寺の境内に入る。中には福寿院【ふくじゅいん】、威徳院【いとくいん】、長床坊【ながとこぼう】、大善院【だいぜんいん】、教学院【きょうがくいん】、宝蔵院【ほうぞういん】という六つの宿坊【しゅくぼう】が建ち並んでいた。
 愛宕山は、江戸時代を通じて神宮寺の白雲寺(右記六坊)が実権を握る、神仏習合【しゅうごう】の山であった。しかし、慶応四年(1868年)の神仏分離令によって白雲寺は破却。同門は、境内各所に残る白雲寺の名残の一つである。
ちなみに京口に対して丹波口の門もあったが、今は廃材が残るのみである。

京都愛宕研究会



参拝したのは2001年11月でした。清滝から表参道を登りました。登り初めて間もなく雨が降ってきた。傘をさして登る。私にとってはきつい登りだった。そして雨も強くなり、撮影しながらゆっくり登ればいいとの希望的観測は簡単に崩れた。神社に到着するまで、カメラはリュックに入れたままでした。1時間ほど登ったところにあった休憩所で休憩兼雨宿り兼早い昼食を取った。30分ほど居ただろうか、雨はやみそうになく、再び傘をさして登る。神社に到着するまで、休憩時間を除き正味登った時間は2時間ほどだった。
私が登っているとき、すごいスピードで一人の男性が追い抜いて行き見えなくなった。しばらく登ると、先ほどの男性が、出会った人と立ち止まって話をしている。二人を追い抜いて登っていると、またその男性が私をスパッと追い抜いて行った。しばらく登るとまたその男性が他の人と立ち話をしているではないか。三度目に私を追い抜いた時、「うろちょろしてすみません。」と言われた。「お元気ですね。」「いや、以前は月参りしてたんですけど、定年後は週参りしてます。」(定年後!? 私よりだいぶ年輩でいらっしゃる)神社に週参りする方はめずらしくないと思うが、この愛宕神社に週参りとは何という体力何という精神力か。いや、月参り、週参りの結果体力がつかれたのかもしれないが、どちらにしても精神力がすごい。

2013年11月、12年ぶりに愛宕神社に参拝しました。今回はFさんと二人で、前回と同じく清滝から表参道を登りました。休憩時間が少なかった分、前回より早く登れたようです。天候にも恵まれました。今回も強者【つわもの】に出合いました。「80歳になったら参拝をやめようと思っていたが、未だに登ってます。」と言われた方は、我々をあっさりと抜いて行かれました。12年前より足腰は強いはずだと内心思っていたのですが、下りで、膝に違和感を感じました。痛くなる予感とでも言いましょうか。平地になってからは違和感もなくなりましたが、潤滑油が少なくなってきているのかもしれません。写真は全て2013年に撮影したものに入れ替えました。前回参拝した時は工事中で、社殿の写真をほとんど撮影しておらず、さらに記憶力も落ちて、社殿のたたずまいが思い出せませんでした。


愛宕神社境内はこちらから

神社の地図 ←地図   戻る

home   改訂:2013.12.08a 作成:2011.10.14