野宮神社【ののみや】(京都市右京区嵯峨野宮町)
めずらしい黒木鳥居、鳥居の両側には小柴垣。
鳥居の奥に、社殿(左手:白峰弁財天社、右手:本殿)が見える。
紅葉シーズンの日曜日、参拝者が途切れることはない。
境内掲示
野宮神社
伊勢の神宮に奉仕する内親王が潔斎のため居住された跡で、今三つの祠があり、中央に天照大神を祀り、左右に愛宕、弁財天神を祀っている。
歴代天皇は未婚の皇女を神宮に奉仕せしめられ、これを斎宮【さいぐう】といった。斎宮に立たれる内親王は、まず皇居内の初斎院で一年余り潔斎されてからこの野宮に移り、三年間の潔斎の後、初めて伊勢に向かわれたが、その時の行列を斎王群行といった。斎宮は垂仁天皇の時に皇女倭【やまと】姫命をして奉仕せしめられたのが始まりで、その後北朝時代(一四世紀後半)に廃絶した。
野宮は源氏物語にも現れ、謡曲、和歌などに謡われているが、黒木の鳥居や小柴垣は昔のままの遺風を伝えるものである。
京都市
石段正面が本殿、右手は愛宕神社
御祭神は野宮大神(天照皇大神)。本殿は当然神明造。
大山弁財天社 |
稲荷社 |
神石亀石 |
野宮大黒天社 |
苔庭(この写真のみ9月28日撮影。他は12月4日)
斎王が占いで選ばれるがごとく、野宮も斎王占定のたびに占いで選ばれた。従って場所は必ずしも一定ではないが、加茂神社に奉仕する斎院の場合は紫野又は有栖川に、伊勢神宮に奉仕する斎宮の場合は嵯峨野に造られるのが通例であった。右京区西院に野々宮神社があるが、これは醍醐天皇の皇女で朱雀天皇のときの斎宮である雅子内親王の野宮といわれている。当社がどの斎宮の野宮だったのかは詳らかではない。『斎宮記』によれば、伊勢斎宮は豊鋤入姫命(崇神皇女)に始まり、祥子内親王(醍醐皇女)まで七十五代にわたって続いたが、以後兵乱等により途絶えたという。
掲示
源氏物語ゆかりの地
野宮(野宮神社)
平安時代の斎宮【さいぐう】が伊勢下向に供えて潔斎【けっさい】生活をした野宮の一つ。斎宮に任命されると、一年間、宮中の初斎院【しょさいいん】に入って身を清め、その後浄野に造られた仮宮(野宮)で一年間ほど潔斎生活をする。平安時代の野宮は主として嵯峨野一帯に設けられ、建物は天皇一代ごとに造り替えた。南北朝の戦乱で斎王精度は廃絶したが、神社として後世に残された野宮神社には黒木(皮のついた丸木)の鳥居と小柴垣【こしばがき】が再現されている。
斎宮となった六条御息所【ろくじょうみやすどころ】の娘(後の秋好中宮【あきこのむちゅうぐう】)が一年間、野宮で潔斎生活を送り、いよいよ伊勢に下向するという直前に、光源氏が六条御息所を野宮に訪ねる場面が『源氏物語』「賢木【さかき】」にみえる。そこは小柴垣を外囲いにし、仮普請【かりぶしん】の板屋が立ち並んで、黒木の鳥居とある。
「はるけき野辺【のべ】を分け入り給より、いとものあはれなり。秋の花みなおとろへつつ、浅茅【あさじ】が原もかれがれなる虫【むし】の音【ね】に、松風すごく吹あはせて、そのこととも聞きわかれぬほどに、ものの音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶【えん】なり。(中略)
ものはかなげなる小柴垣を大垣【おおがき】にて、板屋【いたや】ども、あたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居【とりい】ども、さすがに神神【こうごう】しう見わたされて、」
『源氏物語』「賢木」巻より抜粋
平成二0年三月 京都市
home 更新:2013.10.20 作成:2012.01.08