賀茂別雷神社【かもわけいかづち】(京都市北区上賀茂本山)

『山城国風土記』逸文の賀茂社の条には「賀茂建角身命【かもたけつのみのみこと】、神倭石余比古【かむやまといはれひこ】の、御先【みさき】に立ちまして、大倭【やまと】の葛木山【かつらぎ】の峯に宿りまし、彼【そこ】より漸【ようやく】に遷【うつ】りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河の随【まにま】に下りまして、「狭【さ】小くあれども、石川の清川なり」とのりたまひき。仍【よ】りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰【い】ふ。彼の川より上りまして、久我の国の北の山基【やまもと】に定【しづ】まりましき。爾【そ】の時より、名づけて賀茂と曰【い】ふ。」とある。
賀茂建角身命が葛木→岡田→賀茂と移動したことを伝えている。賀茂建角身命を奉斎する賀茂氏が、北上しこの地に移り定着したと考えられる。その時期は、雄略朝の初期から清寧朝すなわち五世紀後半に現在の地へ進出したと考えられる。
奈良時代初期まで賀茂社と言えば当社を指したが、奈良時代中期に下社(御祖社)が創始されたと考えられる。(『日本の神々5』)

上賀茂社(別雷社)と下鴨社(御祖社)に分離した理由については、賀茂社の祭の盛大さに手をやいた国家の宗教政策とみられる、との説がある。

一の鳥居

参道入り口、一の鳥居

掲示

 賀茂別雷神社は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして、世界遺産リストに登録されました。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値をもっていることを国際的に認められたことになります。
 賀茂別雷神社の創建は古く、7世紀末にはすでに有力な神社となっており、さらに平安建都以降は国家鎮護の神社として朝廷の崇敬を集めていました。社殿は11世紀初頭までに現在に近い姿に整えられましたが、その後衰微し、寛永5年(1628)に再建されました。この時の整備は境内全体におよび、記録や絵図を参考に平安時代の状況が再現されています。再興後は本殿造替が7回実施されており、現在の本殿と権殿は文久3年(1863)に再建されたものです。
 国宝の本殿と権殿は同大・同形式の建物で、東西に並んで配されています。正面3間、側面2間で正面に向拝をつけた流造ですが、正面の流れを長くしている点にこの本殿形式の古制がよく示されています。境内にはこれらのほか、寛永5年に再建されたと考えられる拝殿以下34棟の重要文化財の建物が残り、古代の神社景観を現在に伝えています。
 なお、当神社は京都の三大祭のひとつである葵祭が催されるなど、さまざまな神事や祭事の舞台としても親しまれています。

登録年月 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録
京都市


掲示

上賀茂神社
 上賀茂神社の祭神は、玉依姫が今、上賀茂神社の境内を流れている御手洗川(瀬見の小川禊の泉)で川遊びをしていると、川上から白羽の矢一本が流れてきた。これを持ち帰って床に挿して置いたところ、遂に感じて男子を生む。のち男児天にむかって祭をなし屋根を穿って天に昇る。別雷神【わけいかづちのかみ】とたたえ、祀る神社を賀茂別雷神社という。
 京都でも最も古い神社の一つで、五穀豊穣の神の雷神を祭ることから農民の信仰を集めた。謡曲「賀茂」はこの縁起を叙べて、五穀豊穣国土守護の神徳を讃へた曲である。
 弘仁元年(810)には斎院の制が施され、歴代皇女が斎院となったこともある。

京都謡曲史跡保存会



境内の紅葉

2012年11月24日の紅葉
この日、大安ではなかったが、結婚式の予約がいっぱい。幾組もの新郎新婦を目にした。




細殿と立砂

細殿と立砂【たてずな】

立砂は、神山【こうやま】を模したものだという。神山は、当社の北約2kmにそびえる標高301.5mの聖山である。神山は禁足地であるが、頂上には降臨石(磐座)が存在する。仏教の影響から社殿が造られるようになり、神が社殿に常駐される形となってからは、神跡となっている。立砂の頂上には、松の葉が挿されている。松の葉は御阿礼神事【みあれ】に使われる阿礼木(現れ木。神の依り代。榊。)を模していると考えられる。(『岩石を信仰していた日本人』)




手水舎

手水舎

掲示

名水「神山湧水」【こうやまゆうすい】について
この手水舎の水は、ご祭神「賀茂別雷大神」がご降臨された神山のくぐり水を汲み上げて使用しています
歴史上特に由緒深い境内の井戸水と同じ水脈の名水であり、飲料用水質基準にも適合しています

上賀茂神社




御物忌川に架かる玉橋

御物忌川に架かる、片岡橋から玉橋を見る。



楼門(外から見る) 楼門(中から見る)

楼門



中門

正面は中門




本殿を拝す

中門より御簾越しに本殿を拝す

本殿と権殿はまったく同じ造りになっている。権殿は予備の本殿という。(権大納言の「権」的な意味)通常本殿には御神体が安置されているが、賀茂別雷神社には御神体がないそうだ。本殿の裏側に回ると小さな窓が開けれている。祭典のとき本殿正面の扉を開けると、この窓を通して北にそびえる神山【こうやま】を望むことが出来る。本殿を通して神体山を遥拝する造りになっているのだそうだ。(『京都の旅 第1集』 樋口清之 松本清張著 光文社文庫 参照)




境内案内図

賀茂別雷神社境内案内図(部分)
御手洗川(西)と御物忌川(東)が出合う地に鎮座していることがよく解る。




境内の紅葉




御手洗川の紅葉

御物忌川と合流した御手洗川




涉渓園

涉渓園




御手洗川の紅葉

水と紅葉、この辺りは本当に美しい




御手洗川の紅葉

小倉百人一首の98番「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」(従二位家隆)は、御手洗川を詠んだ歌だそうだ。境内を流れる御手洗川のそばに当社の摂社奈良神社があり、ならの小川とも呼ばれた。川の名「なら」に「楢」【なら】をかけている。




社家町

南下した御手洗川は、社家町を流れる(このとき明神川と名を変える)

西村家(社家の中で唯一一般公開されている)を観光したおりに頂いたリーフレットに以下の文章があった。
 江戸時代、上賀茂神社の社領は二千五百石余と言われ、この大きな社領を背負った神官達が明神川の流れに沿った社前に家を構えたのが社家町である。
 この錦部家【にしごり】の旧宅(現在は西村家別邸)は、現存する社家の中では最も昔の面影をとどめる庭園が残っている。この庭は、養和元年(1181)上賀茂神社の神主(現在の宮司)藤木重保が作庭したものと推察される。
 庭内へは明神川の水を取り入れ“曲水の宴”のための小川 (曲水川) の水としたあと、もとの明神川へ返す工夫がされている。また、神事の前の身を清めたゆかりの井戸、さらに神山【こうやま】(上賀茂神社の御神体山)の降臨石を形取った石組などが残っており、神官達の昔の生活がしのばれて、非常に興味深い。
 家屋は西村家八代目清三郎が明治の中期から後期にかけて建てたものである。
 庭内に見られる小型の羊歯【しだ】は、ここだけに見られる「カモシダ」という原生植物である。
 現在、明神川沿いに見られる苔むした土橋、すがすがしい土屏や門、清楚な妻飾りの棟の低い母屋、土屏越しにのぞかせる緑豊かな樹木等、また屋敷内の前庭の池の水は明神川から取水し、池を流れて清いまま元の川へ流し返す地域のルール等、これらは全て社家と社家町を象徴するかけがえのない貴重な歴史的遺産で、市内でも現在ではめったに見られない景観を保っているのも見どころの一つである。



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写真:2012.11撮影
home   更新:2020.08.02b 作成:2013.02.03