八所御霊【はっしょごりょう】

崇道天皇(早良親王)

最も早くから御霊になっていた人物である。
早良親王は、光仁天皇と高野新笠の子で山部親王(のちの桓武天皇)の同母弟である。高野新笠【たかののにいかさ】は百済の帰化人系和乙継【やまとのおとつぐ】の娘である。
光仁天皇が病を理由に位を退いて皇太子の山部親王が桓武天皇になった(781年)。そしてその即位とともに皇太子に弟の早良親王をつけた。早良親王立太子は、父光仁天皇の意志が強く働いた結果だった。

 785年、造長岡京使として長岡京の工事を見回っていた藤原種継が暗殺された。この計画に連座していたとして早良親王の身柄が拘束され、長岡京の中にあった乙訓寺【おとくに】に幽閉された。この暗殺事件の首謀者の中に歌人大伴家持もいたと言われている。

 早良親王は、無実を訴えるが聞き入れられず、桓武天皇に直接弁明したいと願うが会うこともゆるされず、抗議のため飲食を絶つ。10日余りの絶食のため、淡路国に流される途中の淀川の船上で絶命する。それでも屍は淡路国に運ばれその地に葬られた。

 桓武天皇は、我が子安殿【あて】親王(後の平城天皇)の将来を考えたとき、皇太子である早良親王の存在がうとましかったのかも知れない。「崇道天皇」とは、桓武天皇が怨霊となった早良親王を慰撫するため800年に追称したものだ。



井上大皇后(井上【いのえorいがみor・・・】内親王)・他戸【おさべ】親王

 井上内親王は、当時首皇子【おびとのみこ】と呼ばれていた後の聖武天皇と県犬養広刀自【あがたのいぬかいのひろとじ】との間に生まれた。5歳で斎内親王となり、11歳で斎王として伊勢におもむく。宮仕えを終え京に戻ったときには30歳になっていた。帰京してまもなく井上は白壁王(後の光仁天皇)のもとに嫁ぐ。このとき白壁王は38歳だった。称徳天皇の死後、次期天皇に白壁王をつけるべく尽力したのが藤原百川であった。結果、壬申の乱以後途絶えていた天智天皇系の天皇、光仁天皇が誕生する。(770年)光仁天皇には妻妃が沢山いたが、皇后に選ばれたのは井上内親王だった。聖武の娘という血筋がものを言ったのだろう。771年、異母兄をさしおいて井上が生んだ光仁の第四子他戸親王が皇太子にたてられた。他戸親王は、山部親王(桓武天皇)の異母弟にあたる。

 ところが、772年3月井上内親王は皇后の地位を追われ、同5月皇太子も廃せられる事件が起こる。理由は、井上が光仁天皇を亡きものにして、我が子他戸親王を皇位につけようと呪詛しているというものであった。さらに773年10月、今度は井上・他戸母子が光仁天皇の70歳近い姉難波内親王を呪い殺したという理由で、大和国宇智郡に幽閉され、775年4月27日の同じ日に2人は亡くなる。

 これら一連の事件の背後には、藤原百川の暗躍があったと考えられている。井上・他戸が地位を廃せられた翌年の773年1月、皇太子となったのが山部親王(桓武天皇)である。光仁天皇誕生にも尽力した百川の最終目的は、山部を天皇にすることだったのかも知れない。

788年 夫人旅子が没し、数年の間に生母高野皇太后、皇太子安殿【あて】、賀美能【かみの】親王の母である皇后乙牟漏【おとむろ】が亡くなった。790年、豌豆瘡【えんどうそう】(天然痘)が長岡及び畿内に激しい勢いで蔓延し、多数の死者を出す。791年10月に発した皇太子の心身異常は翌年まで続き、陰陽師は早良親王の怨霊がとりついたためとうらなった。



吉備大臣(吉備真備【きびのまきび】、下道真備【しもつみちのまきび】ともいう。)
吉備の豪族で695年(持統9年)生まれ。25歳で留学生として唐に渡りり、42歳で帰国した。持ち帰った、典籍、日時計、武器等を聖武天皇に献上した。一時藤原仲麻呂に左遷させられたこともあるが、出世の階段をのぼり右大臣となる。政界から引退後、775年に亡くなった。

こうして経歴を見てみると、御霊となる要素は弱い。(称徳天皇亡き後吉備一族は没落していくので、全く無いとは言えないが。)そんなことから、怨霊を監視するために陰陽師である真備を加えたとする説があります。また、吉備真備ではなく、吉備内親王ではないかとの説もありあす。吉備内親王は元明天皇の次女で、長屋王の妃。729年、長屋王が天皇家を呪っているとの密告があり、長屋王と四人の子供は自殺(自経)させられた。吉備内親王も夫と息子の後を追った。


火雷神
「霊安寺御霊大明神畧縁起」には、井上内親王が流罪先(奈良県五條市)で生んだ第3子が火雷神だと書かれている。60歳近い高齢出産。光仁天皇の子ではなく、怨霊の権化。
菅原道真とする説もある。


藤原吉子伊予親王

806年3月17日、桓武天皇が御霊(怨霊)に苦しみながら70歳の生涯を閉じた。皇太子安殿親王【あてしんのう】が即位し平城天皇となる。桓武の意志で、平城の同母弟賀美能親王【かみのしんのう】が皇太子となった。そして807年10月28日伊予親王【いよしんのう】事件が起こる。
藤原宗成【むねなり】が伊予親王に謀反をすすめているという情報を得た吉子(伊予親王の母)の兄大納言藤原雄友【かつとも】は、右大臣藤原内麻呂にそのことを告げた。伊予親王も平城天皇に対し宗成が自分に謀反をすすめた経緯を説明し弁明を行った。平城は宗成を捕らえ尋問したところ、宗成は首謀者は伊予であると主張した。宗成の自白を信じた平城は怒り、150人の兵を以て伊予の邸を包囲し、伊予とその母吉子を逮捕した。平城は二人を大和国の川原寺に幽閉し、飲食を止めさせたため、伊予と吉子は毒を仰いで自殺した。

 藤原吉子、伊予親王母子を服毒自殺に追い込んだ措置は、平城の父桓武に対する怨念のなせる業ではなかったか。
 平城と藤原薬子の問題がある。後宮の女官であった薬子は、藤原縄主【ただぬし】の妻で、三男二女の母であった。薬子は、長女を平城の東宮時代に皇太子妃にすることに成功するが、自らも皇太子とただならぬ関係を結んでしまう。このことを知った桓武は怒り、薬子を後宮から追放する。愛を引き裂かれた平城は怨念を募らせることになる。そしてその怨念は吉子・伊予母子へと向けられる。
 数多い桓武の后妃の中で、とりわけ桓武の寵愛を受けたのが最初の妃である藤原吉子であった。その彼女が生んだ伊予親王もまた、桓武の愛情を一身に受けることになる。(桓武は、伊予の邸にたびたび訪れている。)平城の怨念は、怨むべき桓武の愛情に恵まれた吉子・伊予母子にも向けられたと解釈出来る。
 

 平成天皇は、809年4月、詔を発して皇太弟への譲位の意志を公表した。その年のはじめに発病し回復せず、その原因が怨霊にあると考えた平城は、王位を離れさえすれば禍が去ると考えたのだろう。




橘逸勢【たちばなのはやなり】

桓武天皇の命により、804年に派遣された遣唐使のメンバーの一人である。空海・最澄・菅原道真の祖父である菅原清公【きよきみ】らと唐に渡っている。また嵯峨天皇、空海とともに三筆(書道に優れた人ベスト3)と言われた。

嵯峨上皇の危篤が伝えられていた承和9年(842年)、皇太子恒貞親王に仕える伴健岑【とものこわみね】とその盟友橘逸勢は危機意識を強めていた。淳和の子恒貞親王の母は嵯峨の皇后橘嘉智子【たちばなのかちこ】の生んだ正子内親王である。すなわち恒貞親王には橘の血が流れていた。恒貞親王の父淳和上皇は我が子の即位をみとどけることなく承和7年に没している。
仁明【にんみょう】天皇には、故冬嗣の女順子(良房の妹)との間に長子道康親王がいた。その後ろ盾に良房がいる。嵯峨上皇の権勢をはばかりおとなしくしている良房だが、嵯峨亡き後の彼の行動を健岑と逸勢は極度に恐れた。

嵯峨上皇は承和9年7月に57歳で没する。そしてその2日後、健岑、逸勢らが逮捕される。(承和の変)逮捕に至る経過は以下の通りである。
  伴健岑が平城の皇子阿保【あぼ】親王を訪ね、東国に下って反乱を起こすよう扇動した。
  阿保親王は、その内容を仁明の生母である皇太后橘嘉智子に密告した。
  皇太后は実力者中納言良房をまねき親王の上書を示した。
  良房が仁明天皇に報告した。
しかしこれは、健岑と逸勢の密議が阿保親王の知るところとなり、藤原良房が一大疑獄に仕立て上げた感が強い。

仁明天皇は詔を発して伴健岑・橘逸勢を謀反人と断じ、その責を皇太子恒貞親王にも問い、皇太子の地位をうばいさった。逸勢は姓を非人と改められ伊豆国の配所に向かう途中、遠江国板筑駅で憤死した。健岑は隠岐国へ流された。

政争の犠牲者で非業の死を遂げた敗者に対する同情が怨霊誕生に大きく作用する。逸勢の場合、娘の影響が大きい。
逸勢が流刑地に向かう道中、彼の娘が泣きながらつきまとったという。護送の兵士が根負けして同行を許したが、逸勢は死没する。娘はその場所に父を葬り、墓前に庵を設け、尼となり妙冲と号して供養につとめた。その前を通る旅人は同情して皆涙を流したという。(嘉祥3年(850年)逸勢の罪は解かれ、正五位下が追贈された。さらに、都への帰葬も認められる。)

文屋宮田麻呂【ふんやのみやたまろ】
「承和の変」が冷めやらぬ一年後の承和十年(843年)12月22日、宮田麻呂の従者が、あるじが謀反を企てようとしていると密告、宮田麻呂は直ちに拘束された。参議らの尋問の結果、死罪のところ罪一等を減じ伊豆国に流罪となる。二人の息子も佐渡と土佐へ流罪となった。散位従五位上という、けっして高いとは言えない官位の宮田麻呂が、誰に対して何のために謀反を企てようとしたのか不明である。宮田麻呂の素性についても不明である。(文室氏は、天武天皇の皇子長皇子【ながおうじ】の子、智努王【ちぬおう】・大市王【おおちおう】兄弟が天平勝宝四年(752年)に臣籍降下して賜った氏である。)文室秋津が承和の変に連座して左遷され、承和十年三月、配所で五十七歳で没している。その9ヶ月後に宮田麻呂が謀反の疑いで逮捕されている。宮田麻呂は秋津の一族の者で、承和の変のとばっちりを受けたのかも知れない。

home   更新:2008.12.21 作成:2007.02.27