北畠神社【きたばたけ】(三重県津市美杉町)

参道入り口 境内看板

北畠神社由緒(旧別格官幣社)

祭神 従一位右大臣 准后 北畠顕能公
配祀 北畠親房公 (父)
     北畠顕家公 (兄)
例祭日 十月十三日

 建武中興の偉業は半ばにして破れ、後醍醐天皇は三種の神器を奉じて吉野山に仮の皇居を設けられた。時に延元元年(1336)十二月。以降五十七年間を世に南北朝時代と言う。
 北畠親房は学徳衆に優れ、天皇の信任篤く、常に側近に在ったが動乱に際して自ら陣頭に指揮をとり、足利勢と対決した。大楠公以下諸忠臣相次いで戦没し、長子の陸奥守鎮守府将軍顕家も亦、延元三年五月弱冠二十一才で阿倍野(大阪市)の露と消えた。
 神皇正統記は親房が常陸国の戦陣において筆を執ったもので、国体の本義を明らかにして、南朝の正統を天下に宣言し、後世に大きな影響を与えた史書である。顕能は興国三年(1342)に戦略上の拠点として、この地に霧山城を築き伊勢国司に任ぜられた。この位置が当時の居館跡である。館は多気御所又は北畠御所と呼ばれていた。
 その生涯五十八年のうち、実に四十五年の歳月は南朝護持のために捧げられたものである。大小の合戦六十数回、二度までも京都を奪還した功績は偉大である。南朝方の大御所として、後醍醐、後村上、長慶の三帝に仕えて忠誠をつくした。弘和三年(1383)七月廿八日多気に没す。以後九代二百数十年に亘って、伊勢国司は一志・飯南・度会・志摩の南勢五郡と紀伊、伊賀、大和におよぶ領域に善政を布いたが天正四年(1576)十一月、天下制覇を狙う織田信長の謀略により、具教は三瀬の館(多気郡)に於いて殺され、北畠氏は滅亡した。
 寛永二十年に一族の末裔鈴木孫兵衛家次この地に小祠を設けて北畠八幡宮と呼び村人の尊崇を受けつつ幕末に至った。昭和三年十一月天皇御即位の大礼の日に別格官幣社に列せられたが終戦とともに廃せられた。

霧 山 城 跡
 標高五六0米、遙かに吉野連峰を望む。

北畠氏館跡庭園
 昭和十一年国の「史跡」に指定せらる。(美杉村所有・管理)享禄元年(1528)管領職細川高国の作と伝う。当代庭園中三名園の一に数えられる。昭和十一年国の「名勝」及び「史跡」に指定せらる。



拝殿 拝殿の天狗面
拝殿 拝殿の天狗



本殿 多芸社
本殿 境内神社 多芸神社(金山彦命他三十四柱を祀る)



留魂社の鳥居 留魂社
留魂社

境内看板

留魂社【りゅうこんしゃ】(北畠神社末社)
祭神 北畠具行【ともゆき】卿
    北畠満雅【みつまさ】卿
    北畠具教【とものり】卿
    北畠一族並びに家臣、郎党、農民の戦没者
由緒
南朝及び後南朝と伊勢国司家とのつながりは、約百年間に亘っている。それより前に、後醍醐天皇の倒幕計画があり、之に加わった具行公は北條氏に殺された。北畠氏最初の犠牲者である。北畠親房公、顕能公等に従って各地に転戦し、陣中に没した将兵の氏名は不明であり、その数も詳らかでない。應永、正長年間、後南朝皇子を奉じて、両度の合戦において、足利の大軍を撃破しながら、遂に武運拙く討死した満雅国司ですら、その馬前に斃れた武士達の殉難については、何の記録もない。然し大儀に殉じた英魂は一切平等であろう。もとより上下の差別はあろう筈もない。群雄割拠の世となり、戦国の覇者となった織田信長の謀略に屈して北畠氏は滅びたが、名族の末路はまことに脆く、哀れであった。本拠地多気の霧山城を始めとして、大河内、阿坂、田丸の諸城、各地に散在する砦に立ち籠もる武士達は、節義を護り、潔く主家と運命を共にした。具教公と幼君は三瀬の館で、また内室や姫君達は田丸城内で、いずれも逆臣の手によって果てたのである。森城、築山城が落ちて、再興の途も絶えた。武勇を謳われ、悪戦また苦闘の末、鬼神を哭かしめる壮烈な討死を遂げた北畠の一族や上級家臣の多くは、文献にその名を列ねているが、後世に知られぬままに埋もれた武士の魂は、幾百年の星霜をいずこの空にさまようたことであろう。今こそ、国司家「割菱」の旗印の下に散った英霊は、み魂のふるさとに帰り、始祖のお側に侍って、とこしえに安住の地と鎮まりませと念じつつ、ここに神祠を設け、名付けて留魂社とした。

北畠顕家の像

NHK大河ドラマ「太平記」(1991年)で後藤久美子が演じた
北畠顕家公が印象に残っております。

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home   更新:2006.08.13 作成:2006.02.05