廣瀬神社【ひろせ】(奈良県北葛城郡河合町大字川合)

富雄川・佐保川・初瀬川(注)・寺川・飛鳥川・蘇我川・葛城川・高田川の合流地点に鎮座する。(日本の神々4)(:Wikipediaに、当社の東、川西町大字吐田付近より下流を大和川とする記述有り)奈良盆地を流れる主要な河川が合流する地勢であることから、河合町の名が付いたという。
この地は、近世には奈良と大阪を舟で結ぶ交通の要所として栄えた。当社に隣接して「市場」と呼ばれる地域があるが、船着き場の近く(現在の御幸橋付近)に市がたったという。奈良各地から農作物が集まり、大阪から果物なども運ばれてきてにぎわったそうだ。

一の鳥居

一の鳥居
参道

長い参道を振りかえる



二の鳥居、拝殿

二の鳥居、その奥に拝殿

掲示
廣瀬神社
本殿 奈良県指定文化財(建造物)
砂かけ祭り 河合町指定文化財(無形民俗文化財)

 廣瀬神社は、奈良盆地の多くの河川が合流して大和川となる水上交通の要衝に位置しています。神社の西方には明治の中頃まで「川合浜」という船着場があり、物資の集散地として賑わっていました。
 『河相【かわい】宮縁起』では崇神【すじん】天皇の時代に創建されたとされ、『日本書紀』天武【てんむ】天皇四年(675)条に、龍田の風神とともに祭祀をおこなった記事が見られます。その後、戦国時代に途絶えるまで毎年四月と七月に朝廷より使者が遣わされ、祭祀が行われていました。戦国時代から江戸時代初期にかけて一時衰退しますが、元禄年間に復興し、旧廣瀬郡の総氏神として広く崇敬を受けるようになりました。祭神は主神が大忌神【おおいみのかみ】の異名を持つ若宇加能売命【わかうかのめのみこと】で、水の神、水田を守る神、五穀豊穣の神として篤く信仰されています。
 神社に伝わる絵図「和州廣瀬郡廣瀬大明神之図」は室町時代に描かれたと推定されますが、この絵図には八町四方の四至に鳥居を建てた広壮な姿が描かれています。また、本殿は三殿が並ぶ姿に描かれ、相殿に櫛玉比売命【くしたまひめのみこと】と穂雷命【ほのいかづちのみこと】を祀っています。永正三年(1506)の戦乱により往時の建物は灰燼に帰したと伝えられます。現在に残る最古の建物は、正徳元年(1711)に造営された本殿です。
 この本殿は一間社春日造【いっけんしゃかすがづくり】の様式をよく伝えるものとして、昭和六十三年(1988)三月二十二日に奈良県指定文化財に指定されました。
 毎年二月十一日に行われる砂かけ祭りは「オンダ」とも称される御田植祭【おたうえさい】で、砂を雨に見立ててかけ合い、五穀豊穣を祈る祭りです。この祭りは河合町の歴史を考える上で重要なものとして、平成二十一年(2009)十二月十一日に河合町指定文化財に指定されました。




二の鳥居の額

二の鳥居




拝殿

拝殿




拝殿の奥に玉垣

拝殿




本殿

本殿
春日造の本殿は、春日若宮の用材によって正徳元年(1711年)に造営されたもである。

御由緒「廣瀬大社御記略」
祭神
主神:若宇加能売命【わかうかのめのみこと】
相殿:櫛玉命【くしたまのみこと】、穂雷命【ほのいかづちのみこと】

主神若宇加能売命は、別名を、豊宇気比売大神【とようけひめのおおかみ】(伊勢外宮)・宇加之御魂神【うかのみたまのかみ】(稲荷神社)・廣瀬大忌神【ひろせおおいみのかみ】とも呼ばれ、総て同神である。龍田風神【たつたかぜのかみ】(龍田大社)と深い御縁がある。

創建
崇神天皇九年(前八九年)、廣瀬の河合の里長に御神託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになる。(当社縁起)

旧社領
室町時代には、本社大神の御位田八十町、相殿二座及び摂社の三座に各二十町他、神地封戸等を合わせ凡そ五百余町を保有していたが、永正年間に細川管領の家門に押領され、また天正年間(1580年)に大和大納言豊臣秀長に没収されたことにより、社領が減少し衰頽した。




日の丸稲荷神社

日の丸稲荷社社
鳥居の額には「日の丸大明神」の文字
伏見稲荷大社から分霊されたという。稲倉魂神【うかのみたまのかみ】をお祀りする。




祓戸社

祓戸社
境内掲示:諸人が知らず知らずの内に過ちを犯す罪穢を祓い清める神




日吉社

日吉社
境内掲示:日吉の神を祀り縁結びとして霊験あらたかな神




境外摂社 水分神社

境外摂社水分神社(2004年9月撮影)(「玄松子の記憶」さんによる)
地元の方は小宮さん【おみやさん】と呼ばれていた。
廣瀬大社御記略:山谷から流れてくる水を田畑に配り、苗草の成長を守る御神徳がある。持統天皇五年(691)八月の鎮座。




和州廣瀬郡廣瀬大明神之図 和州廣瀬郡廣瀬大明神之図
広瀬神社は中世までは社地・田地を含め500余町を保有していたという。絵図は年代不詳ながら、永正3年(1506)兵火で焼亡する以前の神社の規模を伝えている。(玉垣内に三殿の社が見えるが、兵火で焼亡後は、左右の二社の神は本殿相殿にお祀りされている。)また、熊野本宮(現在の大斎原【おおゆのはら】)と同じく川の合流点にある中州に営まれていた様子がよくわかる。(大斎原にあった時代の熊野本宮大社の絵図

日本書紀には、天武記四年(675)四月に大忌神【おおいみのかみ】を広瀬の河曲【かわわ】に祭らせたとある。(御由緒には、主祭神若宇加能売命は広瀬大忌神とも呼ばれ同神とある。)大いに斎【い】み祭れば、風水害もなく五穀の豊穣をもたらしてくれる神だが、祭を怠ると大いにタタリを起こす神、それが大忌神の本義であろう 。
『日本の古代7 まつりごとの展開』(中央公論社)


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写真:2014.09撮影
home   更新:2022.09.16a 作成:2014.12.03