大斎原【おおゆのはら】(和歌山県田辺市本宮町本宮)

熊野本宮大社旧社地


大鳥居

大斎原の大鳥居
幅約42m、高さ約34mある。額束上部に八咫烏の紋。




参道

参道




大斎原の杜

大斎原の杜




境内入り口




祠



境内掲示(抜粋)

旧社地「大斎原」【おおゆのはら】
 ここは大斎原【おおゆのはら】と称して、熊野本宮大社の旧社地
明治二十二年夏、熊野川未曾有の大洪水にて、上、中、下各四社の内、上四社を除く中下社の八社殿二棟が非常なる災害を蒙り、明治二十四年、現在地(ここより西方七00米の高台)に御遷座申し上げ、今日に至っております。中四社、下四社並びに摂末社の御神霊は旧社地に、仮に、石碑二殿を造営し、西方に、中、下四社を、東方に、元境内摂末社(八咫烏神社・音無天神社・高倉下神社・海神社他)をお祀りしています。

第五殿 忍穂耳命【おしほみみのみこと】
第六殿 瓊々杵命【ににぎのみこと】
第七殿 彦穂々出見命【ひこほほでみのみこと】
第八殿 鵜葺草葺不合命【うがやふきあえずのみこと】

第九殿 軻遇突智命【かぐつちのみこと】(火の神)
第十殿 埴山姫命【はにやまひめのみこと】(土の神)
第十一殿 弥都波能売命【みずはのめのみこと】(水の神)
第十二殿 稚産霊命【わくむすびのみこと】



境内掲示(抜粋)

旧社地「大斎原」【おおゆのはら】  太古より熊野牟婁郡音無里【くまのむろごおりおとなしのさと】(本宮町本宮)ここ大斎原【おおゆのはら】に鎮まり、第十代崇神天皇の御代に至り、社殿が創建されたとあります。史上有名な中世における「熊野御幸」は当聖地で宇多上皇より亀山上皇に至る迄、歴代上皇、法皇、女院の行幸啓は百数十度に及び、奈良朝の頃より本地垂跡説【ほんちすいじゃくせつ】が行なわれ、仏教をとり入れ、御祭神に仏徳を仰ぎ奉り「熊野三所権現【くまのさんしょごんげん】、又熊野十二社権現」と証われて隆盛を極め、その後も公郷、武門、一般庶民に至るまで朝野の参詣絶ゆることなく繁栄を続け、時宗の開祖、一遍【いっぺん】上人もここ証誠殿【しょうじょうでん】にて熊野神勅を授かり成道したと伝えられています。時宗歴代の上人(今日まで七十三代)は、宗門を継ぐ際は必ず当大社に参拝奉告、時宗護法の神と崇めて、今日に及んでいます。  不幸にして明治二十二年の大水害にて八神殿は倒壊、石祠にお祀り申し上げ、主神の四神殿をここより上流七〇〇米の高台にお遷し申し上げ、今日に至っております。



境内掲示

一遍上人神勅名号碑

一遍上人は伊予国の豪族河野通広の第二子として延応元年紀元一八九九年道後に誕生し童にして仏門に入り幼名松寿丸ついて随緑のち智真と改名苦修練行すること多年学解進み浄教の奥旨を極めたが猶意満たざるものあり諸国の名社聖佛に巡礼して祈誓し最後に文永十一年(紀元一九三四年)熊野本宮証誠殿に祈念し百日の参籠の誠を捧げ大神の霊告を感得してその證成を受け遂に獨一念佛を開顕し熊野の本地は弥陀の信仰より之を弥陀直授の神勅相承と呼ばれる。
之上人成道の聖節にして名を改めて一遍と称し遊行賦算を本宮より始め南は鹿児島北は陸中岩手まで四十ヶ国に及ひ悩める者を助け病める者を救ひ民衆に和と慈愛の心を説き社会福祉社会教化につとめ神勅遊行賦算の途正応二年紀元一九四九年齢五十一才にして神戸兵庫に於て身に唯衣一つにて往生せらる。わか化導は「一期はかりそ」と言はれ自坊もなく宗派を形成することもなく遷化され後世時宗の開祖とならる。時宗獨一念仏開顕の源泉たる熊野本宮の聖地に一遍上人の聖徳を偲ひ今日上人真筆の名号碑を建立
熊野大神の御神意を敬仰し念佛の衆徒を初め信不信を問はす謹みて神勅獨一念佛の功徳を念願するものなり    敬白

昭和四拾六年四月拾四日
      熊野別当三十四代   九鬼宗隆撰
                     永田鱗谷書


旧御本宮御社殿絵図

旧御本宮御社殿絵図(熊野本宮大社内の掲示)

明治二十二年八月、熊野川の大洪水により十二所権現の内上四社を除く全てが流出する以前、熊野本宮大社はここ大斎原にありました。この地は、熊野川とその支流音無川【おとなしがわ】、岩田川の合流点からやや上手にある中州であります。現在はダムのため熊野川も水量が少なく、私、中州であることがピンときませんでした。古来は中州に渡る橋が無く、参詣者は身分に関係なく全て渡渉で社地に入ることを原則としました。これを「ぬれわらじの入堂」と称しておりました。西行も藤原定家も一遍も渡渉して神域に入りました。『一遍聖絵』には舟で川を渡る様子も描かれております。船着き場と見られる石畳も発掘されております。江戸時代には紀州南竜公寄進の「高橋」(長さ二十四間)が架かっていました。(熊野本宮大社現社地の参道に、旧社地の大きな絵図が掲示されており、その図には橋が架かっている。)
瑞垣という言葉があります。(玉垣とどう違うのかわからず私は混同して使っている。)『神と自然の景観論』「川中島」の章に、瑞垣の元は水垣であるとの記述があります。具体例として、大斎原、賀茂川と高野川に囲まれた下鴨神社滋賀県甲賀市土山の田村神社等があがっております。
「水垣の本質は、水にふれ、水を潜らなければ絶対に聖地・聖域に参入できないという点にある。それは、聖地へ参入するに際して、自然な形で必ず禊ぎがなされることを意味している。」(『神と自然の景観論』 野本寛一著 講談社学術文庫)



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写真:2008.06撮影
home  更新:2022.09.16a 作成:2009.07.11