丹生都比売神社【にうつひめ】(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野)

津風呂湖の北側を通り、吉野川沿いの国道に出る。吉野町、大淀町、五條市、橋本市を走っている間に、吉野川はいつの間にか紀ノ川に変わっている。その紀ノ川を渡り、山道をひたすら登ると唐突に開けたところに出る。今までの山道とのギャップに驚く広さだ。標高約450mの開けた盆地に鎮座するのが当社である。

外鳥居

掲示には「外鳥居」とあった。「輪橋」【りんきょう】の奥に「中鳥居」がある。




輪橋

神社の由緒には輪橋【りんきょう】とあった。「太鼓橋」「反り橋」の方が馴染み深い。
淀君の寄進からこのかたちになったそうだ。
美しい橋だ。丹生都比売神社といえば、私の中では、まずこの橋が思い浮かぶ。




禊橋・中鳥居・楼門

両部鳥居(中鳥居)の奥に楼門が見える。(1999年・2004年に参拝したおり、この鳥居は無かった。)
手前の橋は「禊橋」




楼門

神饌所         楼門         拝殿




楼門から本殿を拝す

楼門から本殿を拝す
右手、柱の影になっているのが第一殿で、第二殿、第三殿、第四殿と続く。
一間社春日造としては最大級の規模を誇るそうだ。

祭神
第一殿:丹生都比売大神【にうつひめのおおかみ】
第二殿:高野御子大神【たかのみこのおおかみ】
第三殿:大食都比売大神【おおげつひめのおおかみ】
第四殿:市杵島比売大神【いちきしまひめのおおかみ】



第二本殿

第二本殿
第一本殿

第一本殿

第三本殿・第四本殿・若宮

左から、若宮、第四本殿、第三本殿
左端の若宮は流造。行勝上人【ぎょうしょうしょうにん】を祀る。
鎌倉時代、行勝上人(真言宗の僧侶)は気比神宮から大食都比売大神を、厳島神社から市杵島比売大神を勧請した。
その時から、本殿は四殿となる。


第二本殿の装飾

第二本殿


第三本殿の装飾

第三本殿




佐波神社の杜

境内社佐波神社【さわ】が鎮まる杜。
佐波神社は、明治時代に上天野地区の諸社を合わせ祀った。




鏡池に架かる輪橋

鏡池
八百比丘尼が年老わないことを嘆き、池に鏡を投げ入れたと伝わる。



丹生都比売神社(旧官幣大社)御由緒

 当社の創建は古く、少なくとも今から千七百年前のこととと伝えられる。現存する日本最古の祝詞のひとつである「丹生大明神告門」【にうだいみょうじんのりと】によれば、丹生都比売大神は天照大御神の妹神で稚日女命【わかひるめのみこと】とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、常世の宮としてこの天野の地に鎮座された。
 また播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船をすべて朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し、応神天皇が社殿と広大な神領を寄進されたとある。丹は朱砂を意味し、その鉱物のあるところに「丹生」の名前がある。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を採掘する一族の祀る女性とされる。全国に丹生神社は八十八社、丹生都比売を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、その総本社である。
 御子の高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師空海の前に、白と黒の犬を連れた狩人に化身して現れ、空海を高野山へ導いたと今昔物語にある。空海は日本人の心に根ざした仏教を布教するために、大神の守護を受けて、神々の住し山を借り受け、真言密教の総本山高野山を開いた。そして、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、当社と高野山に数多くの堂塔を於て、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成された。当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、明治の神仏分離まで神と仏が相和して五十六人の神主と僧侶で守られてきた。
 高野山に参拝する表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社の境内の入り口で、地主神である当社に参拝した後に高野山に登ることが習慣であった。
現在の本殿のかたちは、今から八百年前の鎌倉時代に、行勝上人により、気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、合わせて四殿になり、室町時代に火事により、復興されたものである。
 元寇の役では、当社にて元(モンゴル)の襲来の託宣があり、祈祷を行ったとところ元軍が退散したので、鎌倉幕府の崇敬さらに篤くなり、紀伊国の一之宮となった。

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home   作成:2011.08.28