熊野本宮大社【くまのほんぐう】(和歌山県田辺市本宮町本宮)
参道入り口
鳥居の額には「熊野大権現」の文字。
参道
神門から本殿の鈴門を望む
熊野本宮大社配置図
上記の図は「熊野大社」(篠原四郎 著 学生社)による。
祭神
第一殿 証誠殿 家津美御子大神【けつみみこおおかみ】(須佐之男尊)
第二殿 西御前 熊野牟須美神【くまのむすみのかみ】(伊弉冊尊)【いざなみのみこと】 事解男神【ことさかおのかみ】
第三殿 中御前 御子速玉之神【みこはやたまのかみ】 伊弉諾尊【いざなぎのみこと】
(二殿、三殿は相殿になっている)
第四殿 若 宮 天照大神【あまてらすおおみかみ】
(以上第一~四殿を上四社とよぶ)
以下は旧社地大斎の原にある
第五殿 禅児宮 忍穂耳尊【おしほみのみこと】
第六殿 聖 宮 瓊々杵尊【ににぎのみこと】
第七殿 児 宮 彦火々出見尊【ひこほほでみのみこと】
第八殿 子守宮 鵜葺草葺不合尊【うがやふきあえずのみこと】
(以上第五~第八殿を中四社とよぶ)
第九殿 軻遇突智命【かぐつちのみこと】
第十殿 埴山姫命【はにやまひめのみこと】
第十一殿 弥都波能売命【みづはのめのみこと】
第十二殿 雅産霊命【わくむすびのみこと】
(以上第九~第十二殿を下四社とよぶ)
境内掲示
東御前(若 宮)天照皇大神【あまてらすすめおおかみ】
御本社(証誠殿)家津美御子大神【けつみみこおおかみ】(素戔嗚尊の別名)
西御前(速玉宮)御子速玉大神【みこはやたまおおかみ】
(結 社)熊野牟須美大神【くまのむすみおおかみ】
当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く世に知られています。
御主神は家津美御子大神【けつみみこ】即ち素戔嗚尊【すさのおのみこと】と申し、樹木を支配される神であり、紀国【きのくに】(木ノ国)の語源もここから起こっております。
大神は植林を御奨励になり造船の技術を教えられて外国との交通を開かれ人民の幸福を図られるとともに生命の育成発展を司られた霊神で第十代崇神天皇の御代に熊野連【むらじ】が当地に社殿を造営して鎮祭したと伝えられています。
奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広まりました。延■[七/比]七年(約千年前)宇多法皇の御幸【ごこう】をはじめ約三百年にわたり法皇、上皇、女院の御幸は実に百数十回に及びました。これが史上有名な熊野御幸【くまのごこう】であります。これと前後して当時の神仏習合によって御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度どちらが欠けても片参り」などとうたわれるとともに全国に御分社を祭り、その数は現在約五千数社を数えています。
その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱とさまざまの変災の渦中にありながら、人心の信仰はますます高まり、当宮の神威は熊野牛王【ごおう】(おからす様)の神符とともに全国に伝播して明治時代にいたりました。
現在の社殿は享和二年徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝【はるとみ】卿が音無里(現本宮町大斎の原【おおゆのはら】(指定文化財)に建立されましたが、明治二十に年の大出水にあって現社地に修造して遷座されたものであります。この社殿のつくり方を「熊野造」【くまのづくり】と申しあげます。
なお旧社地は別社地と呼び石祠二殿を仮宮として西方に中四社、下四社を、東方に元境内摂末社を合■[ネ+司]してあります。
開寅【あけとら】神事 一月一日
八咫烏【やたがらす】神事 一月七日
木苗祭 四月第一日曜日
春・例大祭
湯登神事 四月十三日
宮渡神事 四月十三日
船玉祭 四月十四日
本殿祭 神輿渡御 四月十五日
御竃木祭 十二月十日
熊野速玉大社の牛王 | 熊野本宮大社の牛王 烏文字で「熊野山宝印」と書かれているそうだ |
熊野那智大社の牛王 |
牛王の入った紙袋に書かれていた説明文
熊野牛王神符【くまのごおうしんぷ】(お烏【からす】さん)について
熊野牛王又は宝印神符ともいう、俗に「オカラスさん」ともよばれ、カラス丈字でかゝれた熊野山濁特の御神符であります。
その起源は詳らかではありませんが、当社の主祭神家津美御子大神【ケツミミコオオカミ】(素盞嗚尊【スサノオノミコト】)と天照皇大神との高天原における誓約【チカイ】、或は神武天皇御東征の際の熊野烏の故事に由縁するとも云われでいます。
「神倭伊波礼彦天皇命【カムヤマトイワレヒコ】(神武天皇)熊野尓行幸給比時尓山波高久谷波深久繞里弖進牟倍伎道母判多受悩美苦志美………建角身命波八咫烏止成里氏(「氏」の下に「一」を追加した文字です)………」
とあって、毎年一月七日夕闇迫る時刻厳修される八咫烏神事【ヤタガラスシンジ】(県無形文化財)に奏上し奉り、古来より牛王刷り初めの神事として有名です。
当社の熊野牛王は、烏文字を木版で手刷りのもので、当社のお烏さんの数八十八羽で、古く天武朝白鳳十一年(約1300年前)始めて熊野僧徒牛王宝印奉ると記せられている。(東牟婁都誌)
この烏文字の数は三山(本宮、新宮、那智各大社)それぞれ異り、当社は八十八羽の烏を見事にデザインして熊野宝中とみとめられる。
時代が降るに伴いこの御神符も色々な方面に用いられ、鎌倉時代には「誓約書」ともなり江戸時代には「起誓文」の代りとして用いられた。
古くから、熊野権現への誓約を破ると熊野大神の使である烏が一羽亡くなり、本人も血を吐き地獄におちると信じられてきたのである。この様に「熊野牛王神符」は熊野信仰の人々を凡ゆる災厄から護っていただいた御神符で
カマドの上(現今はガスの元栓)にまつれば火難をまぬがれる
門口にまつれば盗難を防ぎ懐中して飛行機、船にのれば、船酔い災難をまぬがれる
病人の床にしけば、病気平癒となる
今日当社で、神前結婚式の誓詞の裏に貼布しているのも右の故事によるものである。
敬 白
熊野本宮大社
home 更新:2009.08.16 作成:2008.07.28