斎王垂水頓宮跡【さいおうたるみとんぐうあと】(滋賀県甲賀市土山町頓宮)

頓宮跡入り口




社殿が見えてきました。




神明造の社殿があった。この社殿は伊勢神宮遷宮時の古材(瀧原宮若宮神社)だという。
「伊勢神宮遙拝所」(最上部は読めず)と書かれた木製の柱がたっていた。
すなわち、天照大神、豊受大神を遙拝する場所というこになる。
(伊勢神宮は、方角的には社殿に向かって右手後ろ、南東方向になるんですけど。)




掲示

史跡 垂水斎王頓宮跡

昭和十九年六月二十六日指定
 ここ垂水【たるみ】の頓宮建立跡地【とんぐうこんりゅうあとち】は、平安時代の初期から鎌倉時代の中頃まで、約三百八十年間、三十一人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮【とんぐう】が建立された所である。
 斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名代として、皇祖【こうそ】である天照大神【あまてらすおおみかみ】の御神霊の御杖代【みつえしろ】をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行【ぐんぎょう】の形でご通行されることとなった。京都から伊勢の斎宮【さいぐう】まで、当時は五泊六日もかかり、その間、近江の国では勢多【せた】・甲賀【かふか】・垂水【たるみ】の三ヶ所、伊勢の国では鈴鹿【すずか】・一志【いちし】の二ヶ所で、それぞれ一泊されて斎宮【さいぐう】まで行かれたのである。その宿泊された仮の宮を頓宮【とんぐう】といい、現在明確に検証されている頓宮跡地は、五ヶ所のうち、ただこの垂水頓宮【たるみとんぐう】だけである。

平成五年三月
滋賀県教育委員会

斎宮群行のコースは、当然、都の所在地が異なれば違っていたと考えられる。掲示に書かれているコースは、延喜式に記載が有るそうだが、他はそれほど明確になっていない。平城京時代は、名張、青山町阿保、白山町川口を通るコースが考えられる。また笠置、上野、柘植を経て関から南下する道も考えられる。
初代の斎王である大来皇女の場合、『日本書紀』に、伊勢に下向までの間泊瀬【はつせ】の斎宮【いつきのみや】で潔斎の日々を送ったとの記述がある。その後、泊瀬から榛原、名張、阿保から青山峠を超えて多気、斎宮に入ったか、榛原から高見峠を越えて多気に入ったのだろうか。
垂水に頓宮が建立されたのは、仁和二年(886年)に鈴鹿峠に向かう新道(阿須波道)が開かれてからである。それまでは、湖南市三雲から伊賀市友田、楯岡を経て加太越奈良道(大和道)に通ずるコースをとっていたと考えられてる。伊賀市中柘植にある「斎カ芝」【さいかのしば】(斎宮芝【さいかしば】?)と呼ばれている場所はこのときの頓宮跡と考えられる。

斎王の道

上図は、都から伊勢に向かう道、「伊勢路」「伊勢街道」と呼ばれた道だが、斎王が通った道と重なることもあったであろう。



泊瀬川上流の桜井市上之郷にある小夫天神社には大来皇女が祀られています。大来皇女が潔斎した仮宮(野ノ宮)ではないかと言われています。『日本書紀』には「大来皇女を天照太神宮に遣侍【たてまだ】さむとして、泊瀬斎宮に居らしむ。是はまず身を潔めて、稍【やや】に神に近づく所なり」とあります。小夫天神社の近くには「化粧壺」と呼ばれる小さな滝壺が残っています。ここで斎王が身を清めたと伝えられております。大来皇女が斎王に卜定されたとき、彼女は十三歳でした。一年半の潔斎を終えて泊瀬の斎宮から伊勢に向かいます。名張には、大来皇女の発願と考えられている夏見廃寺跡があります。名張の地を選んだのは、斎王として伊勢に向かうとき、初瀬、名張、阿保を通過したからでしょうか。天武天皇崩御により斎王の任を終え帰京したとき、大来皇女は二十六歳でした。

「斎王の道」(向陽書房)を参考と致しました。





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home   更新:2011.07.05 作成:2011.06.18