山ノ神の性別 山ノ神に関する言い伝え 山ノ神とシトギ 山ノ神と味噌 山ノ神とオコゼ
日本の原始山岳信仰 遠野の山ノ神 伊賀の山の神まつり 山ノ神の神饌棚 山ノ神とお産
山の神様おんび 名張の山ノ神に関する数字 「山ノ神」という地名 山ノ神の神使 たなかみ様
マタギと山の神 国立民族学博物館(万博記念公園)にある山ノ神と奉納品 十津川村の山ノ神の祭
山ノ神の性別
ここで取り上げている山ノ神は民俗信仰の神である。記紀神話には、大山咋神、大山祗神、木花咲耶姫命、菊理姫神(白山比め神)などが山ノ神として挙げられている。
民俗信仰の山ノ神はそのような固有名詞的な名前は無く、単に「山神」【やまのかみ】と呼ばれている。
民俗信仰の山ノ神の性別も一定ではないが、女神であるとする地域が多いようだ。妻のことを「うちのヤマノカミ」と言う例もある。
名張及びその近くの地域では、女神と認識されているようだ。
1月7日に行われることの多い山ノ神の祭では、鍵引きという神事を行う地区(名張、大山田、島ヶ原、美杉他)がある。
注連縄に、ウツギ等の枝で作った鍵と呼ばれるものを引っ掛けて、引っ張る。
言い伝えでは「神無月(10月)に八百万の神が出雲に行った留守に村人が供えた餅を、出雲に行かなかった山ノ神が全部食べてしまった。
出雲から帰ってきた神々が怒って山ノ神を川に放り投げた。
鍵引きは川から山ノ神を引き揚げるため、鍵引きの後でワラを燃やすのは水に濡れた山ノ神を暖めるため」という。
宇陀郡曽爾村伊賀見には、「留守に山ノ神が浮気したので、出雲から帰った夫の神に川に放り込まれた。
11月から川に浸かっている山ノ神を1月7日に引き揚げる」という。
1月7日の祭は男性だけが参加する。女性が参加すると女神である山ノ神が嫉妬するからという。
「山の神信仰分布調査報告書」(名張市総務部市史編さん室)を参考とさせて頂きました。(2012.01.21記)
女房のことを「かみさん」「山の神」というが、山の神様が「かみさん」に略されたのだろう。 山の神の性格は複雑で、年に十二人の子を産む女神だったり、男神、男女両神、荒ぶる神、はたまた天狗だったりする。 日光地方では、、赤城の山の神と日光の山の神とが戦ったとき、日光の山の神を助けた盤司【ばんじ】・盤三郎【ばんざぶろう】は兄弟の山の神とされ、二人は猿王と山姫のあいだに生まれた子だという。 「日本の神様読み解き事典」より (2012.09.09記) 右写真(国立民族学博物館にて撮影)は、男性と思われる山ノ神。神像の左側面には山形県最上郡最上町・金山町の等の文字が書かれていた。左手前の神像(こけし風?)は群馬県川場村の山ノ神、右手前の神像(股木人形、ピンボケ)は滋賀県栗東市の山ノ神。) (2019.09.22写真差し替え・文章追記) |
山ノ神に関する言い伝え
●昔、本屋さんで山ノ神に関する本を立ち読みして覚えている箇所を、記憶をたよりに記述する。書名、著者不明。記憶違いの部分もあるだろうが大筋は合っていると思う。
夫婦があった。夫が山へ仕事に行くとき、身だしなみに気を使うようになった。山仕事に行くというのになぜ?と、妻は不信感が高まった。気になって矢も楯もたまらず、夫の仕事場へ行く事にした。
崖っぷちで鉈を振るう夫の帯を、美しい女がつかんで支えているのが目に入った。思わず出た妻の声を聞いたその女が振り返った。妻を見ると女はスッと消えた。支えを失った夫は崖下に落ちていった。(2012.01.21記)
●「伊勢榊原温泉のあれこれ」(椋本千江 著 三重県郷土資料刊行会 刊)<BR>
神代の昔の事、毎年十月にはあらゆる神々が出雲に集まり、会議が行われた。この会議に山の神も夫婦で出席した。この席にひや餅が出された。(ひや餅とは、米の粉を水でといたもの)いつもは団子しか供えてもらえないので、「家に帰ってからも、こんな美味しいひや餅を食べたいものだ。」と思い、悪いとは思いながらも男神は杵を女神は臼を持って、他の神々の気づかない内に盗み持ち帰ってしもうた。家に帰った山の神夫婦は、お餅を沢山ついて食べていた。この事を知った他の神々は大変怒って、「神が盗みをするとは何事だ。翌年からの会議には出て来なくてもよい。山の中にとじ込んで謹慎せよ。」ときつい命令を下した。この事を知った里人が可哀そうに思い、正月の7日の山の神講に救おうとして、鈎で引き出そうと各地区垣内総出で引くようになった。その焚き火は、引き出した山の神を暖める為にするとも言われている。また旧暦十月七日(現在の十一月末頃)には、おひやしを供えるようになった、との事である。(2012.03.10記)
山ノ神とシトギ
「山ノ神に関する言い伝え/伊勢榊原温泉のあれこれ」のところで言い伝えられている「ひや餅」とは「しとぎ」ではなかろうか。シトギは「粢」と書く様だ。シトギと山ノ神との関連は、相互リンクして頂いている『丹波の神社』さんで知った。京都府南丹市日吉町上胡麻にある山ノ神にシトギが供えられるとのこと。ただし、近くの稲荷神社にも同様にシトギが供えられる。
「山の神」(吉野裕子著 講談社学術文庫)に以下の記述があった。
山の神の喜ばれる神饌【しんせん】は土地により異なるが、もっとも特色のあるお供えといえば、それはシトギであろう。
シトギは米を水にひたしてやわらかくし、粉状にはたいたものを指すので、純白だからシラモチ、オシロイモチなどいろいろの名がある。シトギは何も山の神の専有ではないが、山の神にはもっとも多いお供物とはいえよう。シトギは、生米から作ったものだから、、現代人の口に合うものではない。焼いて食べもするが、これは生のままが建て前なのである。
シトギは、延喜式には見えない。白米とか黒米というのは見えている。シトギというのは探しても見つからないのである。それでいて、神饌としてはシトギは重要なのである。東北から九州まで、シトギを山の神に供えるところは非常に多いのである。(堀田吉雄「山の神」『講座 日本の民俗宗教3』弘文堂刊所収)
(2012.03.10記)
山ノ神と味噌
日本の俗信(井之口章次 著 弘文堂)第四章 呪的な食べ物−味噌の魅力 8山の神と味噌
長崎県西彼杵郡雪ノ浦村では、猟に出かけるときはヤキメシや味噌を持って行くものではない、という。
群馬県利根郡赤城根村では、山へ出るときは焼味噌・汁かけ飯を嫌っている。
正反対の説明を加えている例もあるが、一般に山の神は味噌を好み、殊に焼味噌の匂いを好んでいる。
山詞は、大別して、山の神の甚だしく好むものと、甚だしく嫌うものとに分けることができる。山の神が好みたまわぬ故に忌まれているものは、主として穢れであって、女と死と里に関する語、及び里心を起こさしめるようなものの一切に及んでいる。
山の神が好むものの方は、神の使わしめとしての動物が主たるものだ。山の生活で味噌の話が忌まれているのは、神の使わしめが忌まれていると同様に、殊に山の神の愛で給うものであったからだ。それというのも、味噌が山の神に供すべき神饌として用いられていたからではないか。
中部地方の山村で御幣餅といい、奥州でタンポヤキと呼んでいるものを、北関東の山村ではバンダイ餅という。赤城山北麓の村々では、今に古風な形を留めている。利根郡の旧赤城根村砂川では、杣の十二講と呼ばれる山の神祭の際、杣たちはふかした粳【うるち】米を板台【ばんだい】の上で、ヨキの鋒で磨りつぶし、それを長さ一尺幅一寸、厚さ三分位の串に固めつけ、囲炉裏で焼いて味噌をつけ、また焼いて山の神に供え、人もこれを食べている。一本で三合もあるバンダイ餅であるが、元は山小屋においてのみ、作ることのできる食べ物だった。
西彼杵半島では、山の神は別にあるが、山の神の伝承が巨人伝説と結びついた形をとっている。昔山の上にミソコロ爺とかミソゴロとか呼ばれている大男がいた。ミソコロ爺の足跡は一つしかないから片足と言われている。この大男は一日に一斗の味噌を嘗め、そのため毎日山の上で味噌を擦っている。大瀬戸町の付近に重ね岩と称する岩があって、その岩がミソコロ爺の臼だという。
島原地方では味噌五郎と呼んでいるそうだ。
「kotobank」によると
山詞【やまことば】
猟師などが使う忌言葉(いみことば)。70〜80語が知られ,部外者には秘密にされた。米を〈くさのみ〉,オオカミを〈やせ〉,クマを〈くろげ〉〈山の人〉などという。またぎの山言葉にはセタ(犬),ワッカ(水)など,アイヌ語からの借用もみられる。
(出典:百科事典マイペディア)(2012.02.12記)
山ノ神とオコゼ (「山の神」吉野裕子著 講談社学術文庫 より抜粋)
「オコゼという魚は、非常にグロテスクである。八木山の祭りでも、その無器量さで一同が笑いころげるという筋立てになっている。山の神とオコゼの関係は中世初期の文献にもみえ、かなり古い習俗で、現在でも山の神にオコゼをささげることが各地で行なわれている。山の神は一般に女神とされているが、この神は嫉妬深いため、あまりきれいなものをささげるとやきもちを焼くので、不器量なオコゼをささげるのだという伝説になっている。もちろん、これは後世の付会である。オコゼの刺【とげ】には毒があって、刺されるとはれる。この毒性が邪霊を祓うと考えられたのである。八木山の笑い祭りは、笑いの呪力とオコゼの呪力を合わせて、より大きな呪力を引き出そうとしたもので、オコゼの顔がおかしいから笑うというのは、本来の形ではあるまい。」(樋口清之 『笑いと日本人』)(2012.03.18記)
日本の原始山岳信仰(「神と仏の間」 和歌森太朗著 講談社学術文庫 より抜粋)
一山岳信仰の起源と修験道 2日本の原始山岳信仰
ある山を、その周囲に棲む人々にとつての日常の生活環境と認めて、例えば、農業人ならば水源水流の分布状態、具体的には潅漑の便不便と関係づけてみたりするのである。「山の神」というものは畢竟【ひっきょう】山を支配する神であるが、農民のいう山の神は、春には山から里に降って田の神となり、秋には再び山に帰って山の神となるとされている。この山の神、田の神の相互転移という信念の裏には、山から降下する水流を分ける水分【みくまり】ノ神としての山の神の性格が潜んでいるのであろう。少なくも、山と里とをつなげる仲介は水なのであった。九州一帯では、東部日本のいわゆる河童をミズシンまたはガアラッパというが、そういう淵池に棲む河童は冬が近づくとことごとく水のほとりを去って、山に還り山童【わろ】となる、夏はまた低地に降り来ると信じられている。農業生活者が仰ぐ山こそは、水を通しての山であると特色づけ得よう。狩猟伐木などして暮す山稼ぎの人々は、その山中の生物の棲息状態と関聯して、その生活の恩恵支障の利害関係に基いて神秘感、畏怖感を覚え、それがひいてその山に対する信仰となったりするのである。山の神が男だとか女だとか、とやかく性別をつけるものは多くが狩人であった。農民の漠然たる山の神神格観に比べると、平素山人りするだけあって、その支配神にいっそう迫り接近した気持がそこに認められる。それはたいてい、彼らが山中で遭遇した怪物とか異様な人間、いわゆる山人【びと】とかに対する濃厚な印象に基いて流布された山の神観であった。(2012.03.18記)
遠野の山ノ神 新日本風土記「遠野」(NHK)
早池峰神社の夏の例大祭には、早池峰神楽が奉納される。早池峰神社は大同元年(806年)に建てられた神社で、朝廷の軍勢が攻め入り、城を築いた直後の時代、蝦夷が朝廷に屈した時代でもある。
朝廷の神話を伝える神楽が続く中に異質の舞いがある。山の神舞いである。
縄文から続く原始の祈りが生きてる。
12月12日は山の仕事を休む。山の神が年に一度、自分の山の木の数を数える日で、邪魔をすると命を落とすと伝えられる。この日、男性が山の神碑にお参りしお供えをして祈る。同じ頃、家で女性は山の神(女神)を描いた掛け軸に祈る。女にとって山の神はお産の神であり、森の恵みに田畑を潤す水の神でもある。(2012.02.19記)
伊賀の山の神まつり −通称「カギヒキ」神事− 早瀬保太朗 著 日本民俗学73号 日本民族学会 編
一
伊賀国(現、三重県の上野市・名張市・阿山郡伊賀町・阿山町・大山田村・島ヶ原村・名賀郡青山町)で、いまに風習を遺している「山の神まつり」について、調査概要を報告する。
二
新春を迎えて早々に行なわれる山の神まつりは、また田の神まつりであって、伊賀地方では、ほとんどのムラ(現称の大字にあたる。その考え方については、会報第五〇号所収の拙稿<伊賀の宮座>を参照ありたい。)または、ムラ内の小場(部落の中の小区画。『総合日本民俗語彙』第二巻五八〇頁参照)ごとに行なわれたであろうことが推察せられる。
いまに神事の姿をとどめているムラと小場を、まつり日ごとに掲記すると、正月の、
三日 大野木(上野市」、槇山(前半、阿山町)
四日 東湯舟(阿山町)、
五日 下柘植・新堂(伊賀町)
六日 <宵カギ>名張・夏見。上比奈知(名張市)
七日 長田・西山・白樫・治田・鍛冶屋・下神戸・下友生・喰代(上野市)、富永・猿野・広瀬(大山田村)、玉滝の貝外・槇山の新田・西湯舟の馬場出と西の山(阿山町)、滝川地域・安部田・坂之下(名張市)、旧種生村・矢持村地域(青山町)・伊賀路(青山町)
九日 上阿波・子延・下阿波(大山田村)、槇山(後半、阿山町)
一〇日 法花(上野市)
大様右の如くである。
神事の時間は、六日午後七時ごろからの宵カギを除いて、各日早朝五時半ごろからはじめられ、多くは八時ごろからであり、槇山のみ午後三時となっている。
神事の場所は、山の神を祀ってあるところ(高い山の中腹・小高い丘陵の頂など)。明治四〇・四一年に合祀の行なわれた村では神社境内地か旧祭祀地である。そこは、神事のとき女人禁制となり、男性であれば老若を問わず参加できることとなっている。上野市大野木の小字名に「鍵引」の地名を遠しているが、神事の故地を語り伝えるものとして尊くおもわれる。
(1)槇山ムラでは、三日に前半、九日に後半の山の神まつりが行なわれ、新田小場を除いて、槇山川を境にムラを東西二組に分ち、東組が三日に行なえば翌年は九日となり、西組が九日の場合翠年は三日と、交互に行なわれることとなっている。
三
伊賀地方で、山の神を田の神として迎えるこの神事には、必ず「カギヒキ」を行なうので、山の神まつりを一般に、単に、カギヒキと呼び習わしている。
この報告で特記すべき事項となり、またそれが山の神まつりの古風を語るものと思われるのは、男女両性の木股神像をまつる神事である。すべてのムラの山の神まつりに、この神事が行なわれたか否か、なお調査探求を要するが、神事の進め方について、この神像をまつる形式と、まつらない形式に二大別することができる。前掲したムラのうち、性神像をまつるところは、上野市(白樫)、阿山町(玉滝の貝外、西湯舟の馬場出・西の山)、大山田村(富永)に散在している。
木股神像は、高さ三〇−五〇センチメートル、男神は雄松、女神は雌松をもって作られ、顔を描き、両性の性器をあらわし、白紙をもって衣となし、紅白の水引でくくられる。
(2)白樫では、女性には赤い色紙を用いて衣となす。富永では、神像の用材を松に限定せられず、また紙や水引を用いずに裸形である。
四
以下、神事の次第を略述する。
1 頭屋
神事には通常二、三人(多くても五人以内)の頭屋がいる。頭屋の決め方はムラにょって異なるが、次の
イ 年齢順
口 輪 番
ハ 厄年(おもに初老)に当たる者
いずれかによっている。ただ白樫では岡八幡神社の長老講(拙稿「伊賀の宮座」会報第五〇号参照)が諸準備を担当している。
(一) 頭屋は、当日までに、神事を行なう聖地への山道や聖地を整理・清掃する。
(二) 神酒や神饌を準備する。
(三) 木股神像をまつるところでは、神像(男女二体)を作る。上野市大野木では、両性神像にかえて、弓と矢を作る。
(四) 槇山では、農具の模形−鎌・鍬・鋤・馬鍬・木槌などをウルシの木で作る。
(五) 神事の日は、焚火をしてムラ人の参集を待ち、神像を山神祠か所定の神木の根元にまつり、神饌を供える。焚火には、前年に残してあるカギを用いるところが多い。
2 ムラ入
一戸一入(男性に限る)が、(イ)初山で作ったカギ、(ロ)藁三束、(ハ)山の神への供え物を持って集合し、焚火を囲んで雑談のうちに時の至るを待つ。)
3 カ ギ
(一) 各戸、男性の数だけ作る(今日では一戸に二本と定めているムラがある)。
(二)栗(または樫・ウツギ・雑木)で、長さ二メートルほどに作り、枝・葉の附いたままにしておく。
(三) カギに藁苞を附け、中に松カサか川の小石を数個入れる (これは米俵を意味する)。治田では藁苞を二個つけ、カギヒキ後その一個を家に持ち帰る。
4 神像まつり
長老と頭屋とで、祭詞を唱え、男女の木股神像を合体し、神酒を注ぎかける。(そこに山の神まつりの真の姿が見られる。「生む」神秘の交感、性は集団のものであった古代農耕社会の姿を遺しているようにおもう。)合体後、(1)そのままの姿でまつっておく(富永)、(2)男神と女神の位置をかえてまつる(西湯舟)。(3)神木の根元に並べておく(玉滝・白樫)がある。神像まつりが終ると、全員が神酒をいただく。
5 シメナワ作り
ムラ人全員で、カギヒキのシメナワを作るところでは、神事か終ると、持参した藁でシメナワを作る。神像まつりを行なわないムラでは、全員が集合すると、神酒機嫌でナワ作りを行なう。神橡をまつるムラでも、さきにナワ作りを行なうところがある(富永)。西湯舟では、こともたちが、藁束で、シメナワ作りの人たちの臀部を打ち、戯れはしゃぐ。長老たちはその様を見て「今年は相当荒れるぞ(台風が来る意)」なとと評する。
6 槇山では、真木山挿社の神前に、頭屋から、
(1) 洗米、切餅、栗、田作魚 昆布、柿、蜜柑。
(2)農具模造品。
を供えて、豊作祈願を行ない、祭典後、神前に供えた洗米に、生大根こ焼鰯とを刻み込んで煮きあげ、これに生酢を加えて(これを「注連の花」という)、祝膳(各自持参)で酒二献と注連の花をいただく。祝膳後、カギを引き、農具模造品は参会したこども達に与えられる。
7 カギヒキ
山の神を迎える(引き寄せる)神事である。作りあげたシメナワを神木から神木へ(長いところで一二、三メートルもの間に)懸け渡される(太さは直径一五センチメートルを限度とする)。シメナワに、各自持参したカギをかけ並べる。長老か頭屋が唄出しとなって、全員で次の唱え詞を唱和する。ムラによって大同小異であるが、一般的な唱え詞は、
山ノ神サン 三社権現 早稲【ワセ】モ斗ヅケ中稲【ナカテ】モ斗ヅケ 晩稲【オクテ】モ斗ヅケ 芋・大根ガ根深ク 大豆・小豆ハ提ゲ打チ 東ノ国ノ銭金【ゼニカネ】 酉ノ国ノ糸綿 コノ □□(村名)ムラへ 引キ寄セヨ
である。
シメナワを引き切るところと、引き切らないところとある。シメナワを作らないムラがあり、そこでは神木の天枝に掛けて引
く(治田・下神戸・安部田・丈六・檀など)。白樫では、張り渡されたシメナワを手で引く。
8 カギヒキが終ると、再び神酒をくみかわし、シメナワをそのままに、カギを神木または適宜の木へ掛けおいて散会する(カギは明年の焚火に用いられる)。カギヒキの焚火で餅を焼き、「どんど」のときのように家に持ち帰り、家内一同が悪疫災難から免れようと願うムラがある。
9 「山の神講」と称して、神社の宮座に類した講があり、毎年一二月七日を山のロといって頭屋の家で講を開いている。当日の献立は、酒・豆腐汁・にしめ・切身・大根おろし・味飯といった程度である。講には神事経費の財源として、共有の耕田が三段程度附属する。
五
上記のように、山の神まつりは、またカギヒキと俗称せられているが、ところによっては(上柘植・平田・上阿波)、この神事を「鍬山祭」と称している。そこではカギでなく鍬の形を作るのである。さらに調査を進めたい。カギとクワ、いずれが古い姿を遺すものであろうか、諸賢のご教示を希う。
なが年にわたる調査に際して、ご指導ご配慮をいただいた現地の方々に深甚な謝意を表して、筆を擱く。
(2012.03.27記)
山ノ神の神饌棚【しんせんだな】
●資料 書名:常設展示図録 発行日:昭和63年11月1日 編集発行:野洲町立歴史民俗資料館(銅鐸博物館) 〒520-23 滋賀県野洲郡野洲町大字辻町57番地の1 正月の祭り −南桜【みなみざくら】の山の神− 山の神は、山の口とも呼ばれ、湖東・湖南に広く見られる。野洲町南桜では、1月3日当番組のものが、男女を象徴した神木・男女の神饌棚などを用意し、4日の午前0時に15才以上の村の男だけが藁苞【わらづと】を綱に掛けて豊作を祈る文句とともに振り落とす。五穀豊穣や子孫繁栄を祈る正月行事である。山の神の祭りは、北桜【きたざくら】・桜生【さくらばさま】・山脇【やまのわき】・辻町【つじまち】・上屋【かみや】でも行われている。 正月行事には、元旦を中心とする大正月と15日を中心とする小正月に大別される。小正月の行事には豊凶を占う行事が多いといわれ、上屋・小堤【こづつみ】の日待ち(1月14日晩)の粥占い【かゆうらない】もその一つである。 (銅鐸博物館の現在の住所は、〒520-2315 滋賀県野洲市辻町57番地1) 上記資料に神饌棚【しんせんだな】の写真が掲載されていた。神饌棚は男棚・女棚で一組になっており、二組の神饌棚の写真が掲載されている。二組とも南桜地区のものなのかは不明。(辻町の山の神碑の写真、大篠原の天王神事の写真等も掲載されているため) この写真を見てクラタテを思い出したが、神饌棚は初めて知るものだった。文章でうまく説明出来そうにないので、モノクロの写真を元に下手なイラストを描いてみた。(右) 神饌棚は、細く割った竹を組んで造られていると思われる。女棚・男棚で一組になっている。右イラストの台部分は竹の表面を上にした棚を描いているが、もう一方の神饌棚は竹の内側を上にして台が造られている。どちらが男棚でどちらが女棚なのか、資料から判断出来なかった。台を支える柱は、イラストは4本だが中部分にも柱がある。写真から想像すると中部分に9本位の柱がありそうだ。棚の下には御幣がぶら下がっている。二組の神饌棚の写真が掲載されているが、一方の組は台部のアップであり、ミカンが4個ほど、魚が2匹、ほかに丸い果物らしきものがのせてある。台部の一辺はみかん4個分ほどの長さだ。もう一組の神饌棚の写真は全体像のため小さくて、台に何が乗っているか判別出来ない。ミカンは無いようだ。 (2012.06.06記) |
●南山城村南大河原の山ノ神祭祀に用いられる神饌棚はこちらを参照。(2012.12.16記)
●静岡県藤枝市高草山三輪地区の山ノ神の祭においても、竹で神饌棚を作る。野洲市の南桜地区と同じ様に竹の先に付けた御幣を添える。神饌棚には以下のお供え物を乗せる。
――以下引用――
祭場に到着し、折り掛け、洗米、餅、魚、野菜、果物、塩水などを簾の上に供え、神職が農作物の豊穣と山仕事の安全を願う祝詞をあげる。
――以上引用――
野本寛一『石の民俗』雄山閣 1975年 より
以上は、『岩石祭祀学提唱地』のMURYさんから頂戴した情報です。感謝。(2013.02.03記)
日本の神々(谷川健一 著)第2章 外来魂と守護神
山の神迎え
出産がいよいよ始まろうとするとき、山の神を急いで迎える風習が東北や関東に見られた。
茨城県多賀郡高岡村では、難産の時は家人が鞍を置いた馬を曳いて山の神を迎えにいく。馬がとまると山の神が乗ったものとして、家にかえる(「山村手帖」)。
ウブガミが山の神である理由については、便所神と同様に、これまで一向にはかばかしい答えが出されていないが、私は次のように考えている。山の神は今では漠然と山を支配する神のように見られているが、以前はそうではなかった。それは山霊とも呼ぶべき獣の王であり、日本では狼と熊であった。鹿や猪を獲ったときに、その心臓や肉を割いて捧げるのは、山の主である狼や熊に頒け前を貰ったという感謝の念からであった。
南方熊楠によると、紀州の山奥では狼を忌詞【いみことば】で山の神と呼んだという。「山神【やまのかみ】草紙」(南方熊楠邸保存顕彰会蔵)を見ると、狼の姿をした山の神が動物たちをしたがえて上座に坐っている。
狼はひと腹に七、八匹の赤んぼを産むが、狼が仔を産んだと聞いて、産見舞に好物の塩をもっていく習慣が各地の山村にあった。奥多摩の山中には、丈夫に育つようにと赤んぼのときに狼の乳を飲まされた老人が、そのせいか百歳近くの齢を保つことができて、終戦後まで生きていた、という報告がある。
信州の小谷【おたり】に近い山村でも狼を山の神さまと呼び、山の神が子を産むと、ウブヤシネ(産養【やしな】い)といって、団子や餅を重箱に入れてもっていった。また信州の上伊那地方では、狼の出産祝には赤飯をもっていった。そして、生まれたばかりの仔を灰坊【へいぼう】と呼びかけて祝福する。信州の駒ヶ根市の光前寺は早太郎という義犬をまつるが、これは兵坊太郎が早太郎となったのだ。
千匹狼の伝説も産にまつわる。高知県安芸郡佐喜浜村の野根山に産【さん】の杉という有名な古木があった。その杉は地上四メートルほどの高さの処で幹が横に屈曲し、そこが平らになって、五、六人が楽に坐ることができたという。昔、旅の女がこの樹の上で産をしたという伝説があり、安産の護符にと後代までその杉を削ってもっていく風があった。あるときこの産の杉の根本で憩っていた産婦が数十匹の狼に吠えたてられたので、木にのぼった。狼たちはやぐらを組んで迫ってきたが、なおも届かないので「鍛冶屋の婆を呼んでこよう」と言った。やがて白毛の大狼が肩梯子の頂にのぼってきた。産婦はもっていた鎌で切りつけると、狼たちは四散した。後で調べると、白毛の大狼は、鍛冶屋の婆を食いころして、自分がその婆に化けていたものが、狼の正体を現わして迫ってきたのだった。
この千匹狼の話の中にも、狼と産との関係がうかがわれる。狼は犬に似て安産することから、それにあやかるために、お産のとき、山の神(狼)を迎えるという習俗が生まれたと思われる。
熊も山の王者であった。越後の山村では、一度に熊を数頭も殺したばあい、または年功を経た熊を殺したときには、かならず山が荒れると信じられた。これを「熊荒れ」と呼ぶと江戸時代の鈴木牧之【ぼくし】の書物「北越雪譜」は述べている。私が秋田県の阿仁【あに】で開いた話では、熊のオビ(子宮)をとり出し、これを乾燥したものを紙に包んで腹に巻き、妊婦の安産のお守りとすることがあるという。これは、熊の産は軽く、まだ産期がこないときでも、人が熊の穴の近くを通ったりすると、熊はすぐ産んでしまうという事実にあやかったのである。熊の腹の内側に鯨のヒゲに似た帯のようなものがついている。これを熊の腹帯と称して安産のまじないとして、珍重する。これは長野県の伊那地方の例である。新潟県刈羽地方の山地でも熊の小腸を乾したものを妊婦の腹帯の間に挿してやる(『綜合日本民俗語彙』)。鵜が食物を自在に呑みこみ吐き出すこ とができるので、喉にトゲがささったとき、鵜の気管を乾燥したものをまじないに使うのと同じ理屈である。鵜の羽で豊玉姫の産屋の屋根を茸いたと「日本書紀」にあるのも、安産のまじないからである。
このように熊も狼もお産が軽いということから、山の神を迎えて安産の助けを借りようとする慣習が生まれた。熊や狼の多い東北地方に山の神迎えの習俗が目立っているのも納得がいく。 (2012.9.21記)
NHK BS 1月17日放送 『新日本風土記 〜山あり谷あり神様あり』より
山形県のちいさな集落の「山の神様おんび」 小正月の2月16日、山の神様の御神体が、子供達に背負われてやしろの外へ出て行きます。 「山の神様来ました」と呼ばり、集落の各家を廻ります。家々の人達は、山の神様の膝元ににお餅を供え、お賽銭を置いて、手を合わせます。神様に、そして子供達に・・・ 山の神と田の神が、静かに里を見守ります。 (以上は、ナレーション+映像内容をまとめたもの) 放送では地名を山形とだけ伝えていた。「山の神様おんび」でネット検索すると、山形県西村山郡西川町大井沢で同名の祭のあることがわかる。ネットの掲載写真から、放送されたのはこちらのお祭の可能性が大きいと考える。 別のブログには、大井沢には山神社【さんじんじゃ】という小さな社【やしろ】があり、男女2体の御神体が祀られており2月16日に「山の神様おんび」が行われるという。さらに、御神体は元々お地蔵さんだったが、古くから山の神として祀られているそうだ。 御神体は左図の様に、ずきんと着物でくるまれている。放送で「山の神と田の神が里を見守る」と言っていたので、一体が山の神で、もう一体が田の神とも思ったが、「山の神様おんび」ということだから、小正月におんぶされている御神体は、二体とも山の神様なのだろう。山の神が春里におりてきて田の神になるという認識(柳田国男の山の神・田の神交代説)をご当地がされているのか、放送したNHKがされているのか。 (2014.01.27記) |
名張の山ノ神に関する数字(「山の神信仰分布調査報告書」による)
・山ノ神碑は市内78ヶ所に存在し、山ノ神碑は140基にのぼる。
・65ヶ所において鍵引き行事を実施している。(平成14年時点)
・碑に刻まれた年号
年号 | 西暦 | 場所 |
---|---|---|
享保十五年 | 1730年 | 上長瀬国津神社 |
宝暦三年 | 1753年 | 下長瀬神矢組 |
寛政九年 | 1797年 | 上長瀬国津神社 |
文化十二年 | 1815年 | 奈垣板屋 |
弘化二年 | 1845年 | 赤目町檀 |
(上記表中、赤目町檀の山ノ神碑は「山の神信仰分布調査報告書」に記載がない。)
・神屋の関野地の山ノ神講の古い記録は、当屋の火災によって焼失したが、「昭和60年度は記憶をたどって、361回とする。」とした。逆算すると寛永年間(寛永元年は1624年)が講の起源となる。
(2015.06.14記)
「山ノ神」という地名(「奈良の地名由来辞典」 池田末則著 東京堂出版)
「山ノ神」の小字は全国的に分布する。奈良県だけでも約150例もある。山ノ神は田ノ神と同じく信仰の対象となった。「山の神」は祠として祀る以外に、山中の任意の場所、「吉」の方位の山地・山口などの老樹下を選んで祀る。祭日は7日・9日・12日などで、月は2月と11月が多い。祭日には山稼ぎに出ることを禁じ、当日は山の神が狩をする日である。大和では正月7日、2月7日の早朝「山ノ神」の歌をうたうのである。民族地名。
(2015.09.06記)
山ノ神の神使
●『図説日本民族学』(吉川弘文館)(著者多数)に「山の神のミサキ(使者)としてのカラスを描いたもの。(福島県南相馬市)」として、カラスを描いた絵馬の写真が掲載されている。絵馬の1/3ほどの大きさのカラスが絵馬中央部野原に二本足で立っている。背後には二上山のような形の山、上部に「奉納」、右手に年月日、左手に「願主 □□・・」。
●『山の神』(吉野裕子著)(講談社学術文庫)
山の神祭りとその周辺 一、カラス祭り
・・・カラスを山の神の神使と考えることは、東北の陸奥から西南の日向まで、各地に及んでいる。陸奥三戸郡館村では正月八日の朝、カラス呼びということをする。陸中二戸郡浄法寺村でも同様。伊豆式根島でも、カラスは十二山の神のお使いという。周防吉敷郡秋穂の山神社でも、小鴉の神事がある。お供えの団子を神使とみられているカラスに喰われることによって、作の豊凶を判断することは、東北の場合も同様である。カラスが餅や団子を喰わぬと凶事なのであった。
厳島神社のお烏喰い(オトグイ)の神事も有名である。日向の米良地方でもカラスは山の神の使で、焼き畑をする時に山の神に折りかけ樽とシトギを供えて、神の許しを乞う。その際、神使のカラスにもシトギを供するという。(堀田吉雄『山の神信仰の研究』四一六頁)
(2016.03.22記)
たなかみ様(『おじいちゃんは水のにおいがした』 今森光彦著 (株)偕成社) 山の神様を里にお招きして田んぼの神様と一つになってもらう、冬が始まる頃に行われる豊作を願うお祭り。琵琶湖西岸の里山(針江地区)で行われている。 お祭りは、米蔵の中で行われる。 アンコのおはぎを3個、黄な粉のおはぎを1個、大根、水路でとれた小さな生きた魚を2匹、柳の枝で作ったお箸を添えてお供えする。魚は、水を入れた皿に入れる。一晩おいたら、魚を水路にもどす。 針江地区は「しょうずの郷」だ。しょうず(生水)とは湧水のこと。生活用水として活用されている。食事後の食器などをかばた(川端)に浸けておくと、魚達が綺麗に掃除してくれる。右の写真はいくつもあるかばたの一つ。大きな鯉や小魚が泳いでいた。 |
|
2017.07.08記 |
マタギと山ノ神
「ワタシが日本に住む理由」(BSテレ東)
北秋田在住のアメリカ人が、マタギを生業とする方に取材に行く場面があった。 以下その放送内容のメモ
取材先:北秋田市阿仁 マタギ家系の九代目鈴木英雄氏(70歳)
鈴木さんの祖父七代目鈴木辰五郎氏は、約四十年間阿仁マタギの頭領「シカリ」として活動、阿仁マタギ三十名をたばねる。
マタギとは、古くから農閑期に食料や薬(熊の胆は漢方薬)にするため、熊やウサギなどを狩猟した人達。
ケボカイとは、山の神への感謝や熊の鎮魂を祈る儀式。
熊を仕留めると「勝負した」って言います。
熊の肉が集まったら「授かった」と言う。 誰が授けてくれたのか? 山の神様が授けてくれた。
山の神は女の神様。山の神は男が好き。男は山に入る時は身なりを整え髭を剃って入る。また、山に入るとき女性に関わる物を身に着けてはいけない。山に入る一カ月前から寝床は妻と別々にする。(2019.03.16記)
滋賀県栗東市の山ノ神(1936年収集)
群馬県川湯村の山ノ神(1955年収集) |
山ノ神へ奉納された額と剣(長野県大町市 1952年収集) |
山の神の幣(愛知県東栄町 1978年収集)
(2020.04.10)
十津川村の山ノ神 『新日本風土記 十津川村』より(2019年1月25日放送 NHK BSプレミアム)
十津川村では12月、地区・家ごとで山ノ神をお祀りするという。 番組では、ある地区のお祭を追っていた。まずけずり花(左図)を作るところから始まる。30〜40cm位の丸い棒を2本準備し、小刀で以下を作る。上部の溝、三段の飾り?、地面に突き刺すために先をとがらせる。 一番立派な木の根元に、ミカン、魚、あんころ餅、(もう一つ不明)を供え、その左右の地面にけずり花を突き刺し、お祈りする。 けずり花は男性のシンボルだそうで、山ノ神は女性だという。 十津川村にある玉置神社では、12月7日に山の神の例祭が行われる。(玉置神社公式HP)上記番組では「12月」とだけ放送されていたが、地区の山の神祭も12月7日に行われている? (2021.03.25) |
更新:2021.03.25q 作成:2012.01.21