稲荷山
京都タワーより稲荷山を望む
(クリッカブル・マップ)
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「山城国風土記」逸文に稲荷神社の起源が以下のように書かれております。
秦中家忌寸【はたのなかつへのいみき】の遠祖である伊呂具【いろぐ】(伊呂巨【いろこ】とも)は、稲束を積み上げるほど裕福だったが、奢りたかぶり餅を弓矢の的にしたところ、餅は白い鳥となって稲荷山の峯に降りた。白い鳥が降りた場所に稲が生えた(※)ので、神社の名とした。
(※)伊禰奈利生【いねなりお】ひき → 伊奈利【いなり】で伊奈利社となったというのです。さらに伊奈利から稲荷に変化するのですが、稲荷の「荷」をなぜ「り」と発音するのかは不明です。
この話は、餅に内存する稲魂【いなだま】が白い鳥という形を具現したので、これを神霊としてお祀りしたという伝承であり、この祭神は穀霊ということになるそうです。
鎌倉時代の「年中行事秘抄」、室町時代の「二十二社註式」という書物には、「三箇の峯の平坦な地に示現」と書かれているそうです。松前健氏は「稲荷明神の原像」で「最初は同じ神(穀霊)を三つの峯で祀ったのであろう。」と記されております。
以上のように、秦氏が社殿を建て「伊奈利社」として祀ったのが、二十二社註式等によると和銅四年(711)とのことです。ただ、一の峯・二の峯・三の峯・荒神峯には古い古墳があり、それらは秦氏が深草へ移住する以前の首長の墓と考えられております。これらの古墳のある稲荷山を祖霊墓のある神聖な山として祭祀していた信仰に、秦氏の信仰が重なって現在の稲荷山の信仰に至ったとのことです。(大和岩雄氏 著「秦氏の研究」)また秦氏移住前、稲荷山祭祀を行っていた中心的な存在が、荷田氏だったと考えられます。(梅原 猛 著「荷田氏と伏見稲荷」)
home 更新:2016.03.19c 作成:2005.11.18