阿賀神社【あが】(滋賀県東近江市野口町)
東海道と中仙道を結ぶ八風街道(R421)が神社の前を走る
拝殿
本殿
2012年6月に参拝したおりは、本殿にシートが張られていた。この本殿の写真は、2007年3月に撮影したもの。
写真左下には、玉垣改修に伴う寄進者のお名前の書かれた石碑が写っているが、
今回の参拝時には、以下の内容の石碑に置き換わっていた。
境内掲示
阿賀神社縁起
蒲生郡市辺村野口
古老ノ傳言ニヨレバ 天正年間ヨリ 小脇村ニテ協同祭典守護シテ
明治元年二月二十四日本村船丘第一番ノ内三・四番ノ地ニ御分身ヲ受ケ移社セシモ
本社改築ニ接シ再ビ明治三十一年二月二十四日船丘第一番ノ地ニ轉社ス
本社ハ
祭神 猿田毘古神
私が当神社に強く引かれるのは、この空間があるからだ。
巨大な岩に囲まれた奥に、小さな祠がある。この景観で思い出すのが、和歌山県新宮市の神倉神社だ。
当社も昔は祠が無く、岩で囲まれたこの空間を聖域として神祀りを行ったのではないかと想像する。
少し角度を変えて見る
本殿左手にある岩。注連縄が巻かれており神聖視されているようだ。
写真左手の階段を登ると万葉歌碑がある。
神聖視されている岩を巻くように階段を登る
万葉歌碑 |
掲示(「八日市市」とあるが、現在は東近江市) 八日市市指定文化財 船岡山【ふなおかやま】 昭和四十八年五月二十日指定 八日市市教育委員会管理 茜【あかね】さす 紫野【むらさきの】行き 標野【しめの】行き 野守は見ずや 君が袖ふる 額田王【ぬかたのおおきみ】 紫草【むらさき】の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故【ひとづまゆえ】に われ恋【こい】めやも 皇太子【ひつぎのみこ】 この歌は、天智天皇七年、蒲生野遊猟の時にかわされ、万葉集巻一に納められた有名な歌です。雑歌の部に所収されていることから宴席での戯【ざ】れ歌かと思われます。当時の皇太子は天智天皇の子の大友皇子【おおとものみこ】であるとする説もありますが、日本書紀には皇大弟とあるため、多くは大海人皇子【おおあまのみこ】(のちの天武天皇)とされています。 額田王は、大海人皇子との間に十市皇女【とおちのひめみこ】をもうけましたが、その後天智天皇の寵愛を受けるようになります。十市皇女は大友皇子の妻となっています。 「蒲生野」がどこかについては定かではありませんが、安土町内野、八日市市野口町・三津屋町・市部町に「蒲生野」「蒲生野口」「小蒲生野などの小字名が残ることから、この地域を見下ろす丘陵地であるこの船岡山に万葉歌碑が建立されました。 八日市市教育委員会 |
階段を登り切ったところに万葉歌碑がある。
私uziは、神社にある石を見ると、何の根拠も無く特別視する癖があります。この万葉歌碑もその一つです。
現在は掲示板に成り下がっているものの、本殿の裏側に当たる位置にあるこの巨石群も、祭祀遺跡の可能性があると考えるのですが・・・
万葉歌碑を左手から見る。
日吉大社の奥宮にある金大巖【こがねのおおいわ】を連想してしまいます。
船岡山にある稲荷神社
阿賀神社の参道から、船岡山の裾野を左廻りに北上するとこの位置に出る。
階段の奥に稲荷神社の社殿が見える。
(万葉歌碑からほんの少し北へ歩くとこの社殿に着くこともできる。)
ここでも巨岩を見ることが出来る。
伊勢の夫婦岩を連想致しました。岩門としての機能、鳥居としての機能をこれらの岩石が有しているのではないか。
また磐境【いわさか】に近いものかもしれないという気もする。
参拝後、社殿の中を拝見する。中央の祠の前に伏見稲荷大社のお札、中央下には般若心経。
稲荷神社の鳥居の前方辺りから、太郎坊宮を拝する
景山春樹氏は著書『神体山』において、以下の様に述べておられる。
「神体山信仰の場合には、山頂の奥ツ磐座に対して、かならず山麓には辺ツ磐座【ヘツイワクラ】の祭祀場を伴うのを定型としてる。太朗坊山信仰の場合は、そうした里宮の祭祀場として、いま小字野口にある阿賀神社境内の巨大な岩石群が、そのまま辺ツ磐座の地にあたっていると私は思う。」
home 作成:2012.08.12